AAR/ターヒル家は傷つかない

アボルハサンはバルバラ公国出身の黒人の母を持つ。
母は公国内では有名な才女で、先王バフティヤルの妻となってからはこれをよく支え、第一夫人を凌ぐ寵愛を受けた(先王の子6人中4人までが彼女との間に生まれている)。
アボルハサンも母の才能を多く受け継ぎ、成人してからは先王の家宰として活躍した。

アボルハサンはまずサーマーン朝に先王との間に結ばれていた軍事同盟の更新を求め、受け入れられると962年初頭にメルブ公領内に進軍、第2次ブハラの戦いでこれを破った。

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963年にはメルブ公は降伏し、サーマーン朝は危機を乗り切っている。

964年には王権を引き下げるように要求する派閥のリーダーであったギーラーン伯を奇襲、追放し派閥を立ち枯れにした。

サッファール朝は大王ヤアクーブ2世が老齢により衰弱しており、王国内でも一族が内乱を起こし王軍がこれを打ち破れないなど混乱に見舞われていた。

966年ヤアクーブ2世が死ぬと、24歳のモザッファがこれを継いだ。

これによりサーマーン朝とサッファール朝との間に同盟関係がなくなり、いよいよサッファール朝は弱体化した。

969年にはアッバース朝のカリフ、ムバラクが力を持ちすぎていた臣下ファーティマ公に宣戦。ターヒル家に対抗すべく王権の強化を狙っていることは明白であった。

同時期にアボルハサンもサッファール朝からケルマーン伯領を奪い、いよいよアッバース朝との決戦の準備を始めた。

共に1万ほどの動員兵力を用意したと言われるが、事態は彼らの思わぬ方向に推移していった。

サーマーン朝領内カスピ海北方にはテュルク系に属する遊牧民が住んでいた。
彼らはいつしかイスラム化しサーマーン朝辺境の傭兵として活躍していたのだが、人口増による食糧事情によって南下。
略奪を行いながらサーマーン朝の主要地域に達しようとしていた。彼らの統率者の名を

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セルジュークという。

総勢は2万という大軍であった。

ペルシャ王国ではセルジュークに対する主戦派と非戦派で2分された。
しかし非戦派のリーダーで、王の動き次第では独立すると公言して憚らなかったビールジャンド伯が不審死すると、アボルハサンは即座に全軍を招集しサーマーン朝内に渡った。

971年サーマーン・ターヒル連合軍はセルジューク本軍と戦い辛勝。

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この時アボルハサン生涯の盟友となるシャーヤー2世王が元服し初陣となっている。

さらに同年冬カングリの戦いでセルジュークを捕縛しこれを自らの手で処刑した。

これで自信を深めたアボルハサンは、ついに973年メソポタミアを要求しアッバース朝に宣戦布告。

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クウェートの戦いで兵数がほぼ同じながら圧勝し、ペルシャ軍の精強さが中東一帯に広まった。
両者は976年に和議を結び、アボルハサンはメソポタミア全土は手に入れられなかったものの南部バスラ一帯を掌握した。

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アッバース朝は首都を一旦アルメニアに移転したが、王朝の中心地バスラが奪われたことで著しく弱体化していくことになる。

アボルハサンは遊牧民やアッバース朝を圧倒したことでこの頃から賢王と呼ばれるようになる。

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その後10年はアッバース朝と対峙しながらクルド人の独立国家アルターキー公やサッファール朝の領土を奪っていった。

989年、宿敵であったカリフ・ムバラクが反乱軍兵士によって殺され、少年のムバラク2世が跡を継ぐ。もはやアボルハサンを止められるものはいなくなった。

この間軍備に金を費やし、直轄動員兵力は8000を超えた。

994年アボルハサンは再度メソポタミアを要求しアッバース朝に宣戦。

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ムバラク2世は非常に気弱であり、またターヒル軍が圧倒的であったこともあり995年に全面降伏。

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穀倉地帯メソポタミア(一部を除く)を手に入れたアボルハサンに対する諸国の恐怖はついにペルシャ包囲網として結実する。

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黄:アルターキー公、橙:サッファール朝、青:シリア王、紫:アッバース朝

この包囲網はアルターキー公によって主導され結成された。
しかしアッバース朝カリフムバラク2世に軍を動員する力がないと見たアボルハサンは、シリア王と結んでこの包囲網を崩壊させる。

995年、打つ手を失ったアルターキー公に対しアボルハサンは「懲罰」を開始。アボルハサン死後、後継のシャバーズ王の時代に公は滅亡させられ、クルド人は長い間独立を失うこととなる。

その後997年にはアッバース朝カリフとシリア王、ペルシャ王アボルハサンの間で3国同盟を締結。
2国がアボルハサンの小国に対する侵略活動を是認する代わりに彼に安全保障をしてもらうという内容で、事実上のアッバース家からターヒル家への中東における主導権移譲であった。
999年のトゥールーン朝によるアッバース領ペトラ侵攻の際にはペルシャ王自らこれを打ち破っている。

アバルハサンは国外情勢が一旦落ち着くと国内改革を行った。
ペルシャ王としては始めて公爵位を家臣に授与し、肥大化した領土支配の効率化を図り、さらに在地の土豪たちから権力を次々取り上げてペルシャ人に統治を任せた。
そして多くの支持を集めると1000年自らこそがメソポタミア王であると宣言。これに異を唱える国はいなかった。

1000年に義理の弟サーマーン朝のシャーヤー2世が死んだが、サーマーン朝にもはや価値はないと思っていたのか、同盟更新はしなかった。

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1007年、アボルハサンは68歳で自然死。ペルシャ王及びメソポタミア王は長男シャバーズが継いだ。

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アボルハサンは改革によって手に入れた強大な軍と、サーマーン朝との同盟を後ろ盾にしており、これによって連年戦争を行っても国家が破綻しなかったとされる。
巨大となった領地を元にした革新的な内政改革はアボルハサンの治世の間絶えることなく行われ、アボルハサン即位時動員兵力は1万だったが、治世末期には2万5千を超えており、中東にはこれに対抗できる国家は存在しなかった。
彼の治世にメソポタミア一帯と北ペルシャが完全にターヒル家のものとなり、さらに3国同盟によって外交政策も破綻することはなかった。
またアボルハサンは宗教的権威ではなく、家臣や領民による圧倒的支持によって自らの行動を正当化した。ムバラク1世によるイスラーム帝国再興は失敗に終わり、人々は少しづつカリフから離れ、各地域における政権に希望を見出し始めた。

これに自信をつけたターヒル家はついにササン朝以来のペルシャ皇帝位を夢想するようになる。

彼の治世を契機に一つの時代が終わろうとしていたのである。

第五回 シャバーズの治世


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Last-modified: 2020-09-11 (金) 12:29:53