ユサールの馬蹄記

聖冠王時代(1) ~ 内乱の始まり

予想外の即位

Gábrielの不意の死、それも戴冠式の最中の突然死は、様々な余波を起こさずには済みませんでした。
Gábrielの長子Istvánも、影響を受けた一人です。彼は、こんなにも早く自分に王位が巡ってくるとは予想だにしていませんでした。
丁度戴冠式が行なわれる時期、IstvánはVas女伯Hedwigの居城、Szombathelyに滞在していました。戴冠式に出席するにあたり、Istvánは
子供たち(三人の男児と一人の女児)をSzombathelyに残し、Vas女伯夫妻と共に王都Pestに向かいました。戴冠式に出席した後にVasへ戻り、
子供たちと合流した後国内の視察*1を再開させようと考えていたのです。
これは油断以外の何物でもありませんでした。

しかし、Gábrielの死に最も影響を受けたのは間違いなく、封建諸侯たちでした。
彼らはGábrielの死に動揺します。熟達した政治家であったGábrielに比べIstvánは善良な人間であることは確かですが、その能力は至って凡庸なものでした。
更に、Istvánは生来の虚弱体質でありました。

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Gábrielがあのような突然の死を迎えた今、Istvánもそうならないという保証はありません。
いえ、むしろその可能性はかなり高いものでありました。そうなると、後継は未だ成年していないMátyás。付け入る隙は十分にあります。
野心を胸の奥深く秘めた諸侯たちは、それでもためらいます。200年に渡るÁrpád家の支配、その間に培われた権威への挑戦は並みの覚悟では出来ません。
そんな彼らを行動に駆り立てた最後のひと押しが、あの噂でした。

『聖冠は戴くものを自ら選別する。冠に拒否されたものは聖冠を戴くことは出来ず、王の座に留まることもまた許されない』

もはやためらうことはありません。誰であろうとも、あの聖冠に選ばれたものこそが王なのです。
王国の地下深くで複雑に絡まり合った諸侯たちの野心と不満が、遂に噴出口を見つけ出したのでした。

内乱の始まり

叛乱の主導者となったのは、Vas女伯Hedwigでした。

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猜疑心に満ち、女性ならではの行動力と野心に溢れた彼女は、Gábrielの死後いち早く自らの所領へと戻ります。
そして、各地の領主たちに連絡を取り、反乱勢力へと引きこむ工作を始めたのです。
彼女のもとには担ぎあげるのに格好の神輿もありました。
Istvánの長子、王国の継承権第一位であるMátyásです。

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Pestに留まっているIstvánからは子供たちを送るよう再三の命令が届いていますが、Hedwigは全て無視。
両者の関係は急速に悪化します。
しかし、Istvánはこの時期においても状況を楽観していました。
『たとえ叛乱が起きるとしても、起つのはVas女伯のみ。むしろ圧倒的な力で叩き潰すことで、他の諸侯への見せしめにもなる。』

そうはなりませんでした。

1052年7月、全ての準備を整えたHedwigが遂に蜂起します。表向きは王子Mátyásを立て、ハンガリー王位を要求します。
しかし、彼が傀儡にすぎないことは誰の目にも明らかでした。Hedwigは秘密同盟の履行を求め、各地に馬を飛ばしました。
彼女の放った檄文に答え、野火のように蜂起は広がっていきます。
クロアチア公、ヴィディン公という王に次ぐ位置にある両者も叛乱に与します。彼らに唆され、クロアチア、セルビアの諸侯が一斉に蜂起に参加しました。
ドナウ河の南岸一帯がほぼ叛乱軍の勢力に沈んだのです。

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それでも、王の陣営には未だ余裕がありました。ドナウ北岸、パンノニア平原からワラキアにかけての大多数とモエシア地方の一部諸侯は王に付きましたし、
この時期はÁrpád以来の伝統を誇る近衛軍*2が健在でした。
1053年5月、Torkiでの会戦で大勝を収めた後は攻守逆転、István軍が攻めに回ります。

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1055年4月、悪戦しながらもしぶとく持ちこたえていたHedwigも遂に降伏。内乱はIstvánの勝利に終わりました。

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誤った戦後処置

内乱終結後、Istvánは長子Mátyásの持つ継承権を全て剥奪されます。
表向きはホスピタル騎士団に入団したとされましたが実際は王宮の一室に軟禁された状態でした。
担ぎあげられただけといっても王に向かって剣を向けた罪は問わずに済むものではなかったのです。

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1057年、成人した第三子*3Péterをビザンチン皇帝の妹*4と結婚させ、正式な王位継承者とします。
これで、後継者問題は片付きました。

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1059年、Istvánは地中海に面する2つの都市SplitとRagusaに公爵と同等の格を認め、共和国*5としての自治を認める証書を発行します。

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相次ぐ戦乱により勢力を後退させていたヴェネツィアに代わり*6、アドリア海に
乗り出していた2都市の経済的伸長は著しく、Istvánは彼らの力を強めることで叛乱を起こした南部諸侯と対抗しようと考えたのです。

Istvánのこの考えは、しかし上手くいきませんでした。確かに彼ら商人にとって王都Pestは重要な市場です。
しかしまだ力の弱い彼らにとって最も重要な取引相手は近隣の諸侯、すなわちクロアチア公やヴィディン公ら南部の領主たちでした。
彼らとの関係から、先の内乱では2都市とも反乱側に与しています。共和国の商人たちは王よりも余程南部諸侯との方が親しい関係にあったのです。
Istvánはまた、四男Andrásを新たに創設したラシュカ公爵に任命します。これはÁrpádの定めた統治のメソッド、『三公爵以上の創設は認めない』に完全に違反していました。
Istvánによる一連の戦後処置は、却って潜在的な反乱分子の強化につながってしまうこととなりました。
このしっぺ返しは彼の息子Péterにやってくることになります。

祖父を夢見て

内乱も終結し後顧の憂いも無くなったIstvánは、外征を企みます。
これまでもÁrpád家は十字軍の旗の下異教徒を征服し、勢力を広めてきました。
Istvánもこの伝統に従います。狙うのは隣接する最後の異教国家、ルテニア王国。Istvánはこの国を征服した後、戴冠式を挙行することを宣言します。

順調に軍は進んでいきますが、気がかりなこともあります。1061年6月、Istvánが病に倒れたのです。

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それでも進撃は順調、1062年5月にはガリチア地方の征服に成功します。Istvánはこの地を族子のJózsefに託します。

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次の目標はヴォルニア。ルテニア王の反撃は弱く、この地の征服も容易に済むと思われました。ところが―――。

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1062年10月、Istvánは病に打ち勝つこと無く、39歳という若さであっさりと死んでしまいました。

Istvánの遺した王国は、噴火直前の火山にも似た状況でした。彼の治世中に起きた叛乱はその前触れに過ぎなかったと言っていいでしょう。
しかし、敵を増大させたのは他ならぬIstván自身なのです。叛乱の恐れのある都市に、強力な自治権を与えました。
反旗を翻し敗れた諸侯たちも口では忠誠を誓いましたが、その胸中は憎しみであふれています。
そして王の最も頼れる直轄軍、近衛兵*7は内乱と続くルテニア遠征で兵数を大幅に減らしていました。

復讐の鐘が鳴り始めます。

ハンガリー王IstvánⅢは39歳で此岸から退いていった。病死であった。王Péter万歳!

Péterの治世へと続く 聖冠王時代(2) ~ 果て無き内乱


*1 実際は観光に近い
*2 イベント兵
*3 次子は夭折
*4 現皇帝もIstv[a]nの妹と結婚しているため、王子Péterからすると皇帝は義父にして義伯父
*5 ダルマチア共和国とディオクレア共和国
*6 この時期のヴェネツィアは何度もビザンチンから攻撃を受けており、1092年には征服される
*7 イベント兵

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Last-modified: 2015-01-10 (土) 17:03:29