ユサールの馬蹄記

聖冠王時代(3) ~ 混迷の収拾者

王国分裂の危機

長く悲惨な内乱の果てに勝利が見えたと思ったその時、Péterはつまらない小競り合いの中で命を落としました。
代わって王位についたのは異母弟のラシュカ公Andrásです。

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彼は異母兄の苦境の際も見捨てず、内乱の間常に王の陣営にとどまり続けます。
更に彼は危険を承知で反乱側に与した諸侯の陣営に自ら飛び込み、王と講話するよう説いて回るようなこともしています。
内乱の間中発揮されたAndrásの政治力は、諸侯からこれ以上叛乱を継続する口実を奪います。
加えて、兵も将も、同胞同士で殺しあうことに疲れきっていました。
こうして、内乱はなし崩し的に終了します。
しかし、この結果に納得しない人物がいました。対立王として担がれていたÁrva伯Szilveszterと、彼を支持する一派です。
彼らは忠誠宣誓を破棄し、王冠からの独立を宣言します。更に内乱中にハドリアノポリス専制公NiketasがMoesia伯領を不当に占拠。自らの所領に組み入れます。
こうして、ハンガリーは分裂の危機に直面しました。

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疾風怒濤の再統一

Andrásは自分に課せられた使命を明確に理解していました。
兎にも角にも王国の再統一が急務です。
Andrásは内乱中各地に散っていた常備兵を呼び戻し再編成を行うと、すぐさま独立宣言をした諸侯に差し向けます。
ほとんどが1伯領の伯爵、しかも長い戦いがようやく終わったと安心しきっていて迅速な連携など望むべくもありません。
長くとも1年ほどで、次々と王の軍門に降ってきます。
しかしAndrásはその結果に満足しません。彼は焦っていました。諸侯の不満は完全に払拭されたわけではなく、力が弱った状態のAndrásを虎視眈々と狙っているのです。
一刻も早く王国の再統一を達成する必要がありました。

1070年2月、Andrásは苦渋の決断を下します。
ガリチア・ヴォルニア公Józsefに公国として独立を許可。同時に宗家として外敵の侵略時には支援を行うことを確約します。

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国内の独立派閥急先鋒のガリチア公の独立を認めることで反王派の動きに楔を打つこの政略は成功し、一時的に国内は静かになります。
しかし、その代償は大きなものでした。ガリチア公の独立は、それ以上のÁrpádの北進を挫折させるものでした。ボヘミア、ポーランドに続き
ルテニアもÁrpádの赤地に銀の四本縞の旗の下に征服しようとしたIstvánの野望は、息子の手によってはかなくも消えていきました。

このような代償を払った以上、絶対に再統一をなさねばなりません。1070年9月、折良く内乱状態にあったビザンチン帝国において、ハドリアノポリス専制公に対し
Moesiaの返還を要求、Mesembriaで会戦が行われました。

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隘路に誘引してから騎兵による逆撃という、ハンガリー軍得意の戦略が的中。1071年にはハドリアノポリス専制公に対し勝利を収め、最大の懸念であったMoesia伯領の奪回に
成功します。

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掠奪、廃止

このころになるとAndrásの地位も確固たるものとなり、王国のその後まで考えた処置が行われるようになります。
その一つが、ディオクレア共和国の扱いです。
Szilveszterに同心して独立を宣言したディオクレア共和国に対して、Andrásは強硬な態度で臨みます。
彼は共和国に対して与えていた自治権を撤回、同時に共和国の首都Ragusaを陥落させた後徹底的に略奪させます。

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王の行動に各地の諸侯は震撼、特に隣接するダルマチア共和国は明日は我が身と慌てて王に対し改めて忠誠を誓う使者を送り出した程でした。
もうひとつ行なわれたのが、ラシュカ公爵の廃位です。
Andrásはハンガリー王位と共に代々受け継がれるペスト公、ペーチ公の他に即位前に贈られたラシュカ公爵の位階を持っていました。
しかし、彼はこれを廃止します。あの悲惨な内乱を通じて、彼はいかに信頼おける家臣といえども過ぎた力を持たせるのは危険だと考えたのです。
それははるか以前、始祖Árpádによって示されたことの再確認でもありました。

『聖冠王時代』の終焉、そして……

1077年8月、遂にAndrásはハンガリー王国の再統一に成功します。

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これをもって王国内の内乱は終結、Andrásは同日付で戴冠式の挙行を宣言します。

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三ヶ月後、華やかに彩られたEsztergom大聖堂で、Andrásは「アールパードの聖冠」をその頭上に戴きます。
威風堂々たるその姿に、市民たちは長い戦いの終わりとこれからの繁栄を思い、大いに泣き・騒ぎ・喜ぶのでした。

1050年に亡くなったIstvánⅡから1077年のAndr[a]sの戴冠式まで、実に27年。3代の王が聖冠を受けること無くこの世を去りました。
ハンガリーの王位は戴冠式を経て正式に王位についたと見なされます。ではこの27年間、ハンガリー王位は誰のものであったのか。
これは特に王の権力が揺らぎはじめる16世紀ごろから活発に議論され始めますが、最終的に「27年間の空位期にはアールパードの聖冠が名目上の君主を
務め、実際の統治は即位していた王が聖冠の名のもとに行っていた」という見解で決着がつきます。このことから後世ではこの27年間の内乱期を『聖冠王時代』と呼びます。

再統一を成功させ、戴冠式を無事に終えた後のAndrásはまるで燃え尽きたようでした。3年後の1080年2月に病に臥せったかと思うと、

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1080年4月、

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28歳という若さで息を引き取りました。王国の一大事にその身命のすべてを捧げ、再統一を成した男は、その繁栄を味わう暇もなくこの世を去ったのでした。

Andrásの死は、宮廷内に小さな混乱をもたらしました。異母兄同様、Andrásにも男児がいなかったのです。*1
そして、存命者の中で最も血縁が親しいのはかつて対立王として異母兄弟に刃を向けた彼らの伯父、Árva伯Szilveszterでした。
王の死後宮廷内で様々な駆け引きが行なわれた後、結局王としてSzilveszterが迎え入れられる事となりました。

ハンガリー王Andrásは28歳で天国へと向かった。病死であった。王Szilveszter万歳!

Szilveszterの治世へと続く 短い中継ぎ(ショート・リリーフ)


*1 女児は2人いたが、ハンガリーでは女性に王位継承権を認めていない

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Last-modified: 2015-01-18 (日) 03:45:58