歴史用語集

本AARはカロリング朝以来の旧来の名家であったボソン家の再興を描いた妄想年代記です。当然ながら、現実の歴史用語とは異なる語彙を多数含みますので、ここにまとめて掲載することとします。

ボソン家分家

アンコナ家

プロヴァンス女公Matildaの長男Rudgerの家系。Rudgerの妻がアンコナ女公であったことから代々アンコナ公位を継承することとなったが、3代で男系は断絶した。

サヴォイア家

プロヴァンス女公Matildaの次男でその武勇から「プロヴァンスの猛牛」と称されたGautierがサヴォイアに封じられたことに端を発する家系。ボソン家は次の代でノイエンベルク家の男系を受け入れているため、男系がノイエンベルク家に行き着かない家系としては唯一後世にまでその血筋を残していることとなる。(Gautierの父はアラゴン王子であり、厳密な意味での男系ではイベリア系ヒメノ家の血を汲んでいるといえる。)

シチリア家

プロヴァンス女公Bonaの長男Ponsの子孫の家系。Ponsの死は暗殺であったともされるが、母Bonaの存命中に死去したこともあり、公位は弟のGuilhemへと受け継がれることとなった。Ponsの家系はPonsの妻、Eriaを経由してシチリア王位を受け継ぎ、シチリアにボソン朝を打ち立てた。王権は弱く、度重なる内乱に苦しまされた。

ヴェネッサン家

オランジュ家はプロヴァンス公の獲得に一時成功したが、結果的にはむしろ領国であったヴェネッサンをボソン家のRuprechtに簒奪される形となり、ヴェネッサンはRuprechtの息子Amaneusに与えられた。Ruprechtの死後、Amaneusと弟(で同じ名前の)シュヴァーベン公Amaneusとの跡目争いは激しかったが、結局はシュヴァーベン公が相続し、ブルグンド王国の設立を宣言した。Amaneus自身もブルグンド王太子となったが、即位を前に死去。彼の系統はヴェネッサン家として続いていくこととなる。

シュヴァーベン家

シュヴァーベン公Amaneusを祖とする系統。Amaneusの父、ジェノヴァ公Amaneusが最初の妻Elena d'Orangeが若くしてこの世を去った後にシュヴァーベン女公Agatheを後妻に迎えたことに端を発する。シュヴァーベンとプロヴァンスの領地の統合によりAmaneusはブルグンド王国を創設したが、この際の強引な相続には反発も強く、ボソン家の血脈は分裂していくこととなる。

バルセロナ=ボソン家

文脈次第では単にバルセロナ家とも呼ばれるが、史実のバルセロナ家と区別してバルセロナ=ボソン家と称される。ボソン家配下の下級貴族に生まれたPhilipp de Vienneは稀代の天才であり、宰相に任じられるとともにバルセロナ伯を与えられた。家格の強化のために、Philippは婿に入る形でプロヴァンス公Ruprechtの妹と結婚し、バルセロナ=ボソン家の祖となった。

アラゴン家

神聖ローマ皇帝ともなったLotharを祖とする。ボソン家最初の皇帝Adalbertが帝国諸侯の整理を目的としてムルシア公位にあったLotharにアラゴン王位を譲ったことからアラゴン王位を世襲するようになった。Lotharの息子Hessoの代にはデンマーク王位も手にし、帝国内随一の勢力となった。ブランデンブルク家、ムルシア家、トスカーナ家はいずれもアラゴン家の分流である。

神聖ローマ帝国における王朝

ノイエンブルク朝

1116年、ザーリアー朝最後の皇帝となったWolfgangが戦場での傷を悪化させて死去した。遺児はいずれも未成年で、帝位の相続は諸侯たちに認められず、スイス西部ヌーシャテルの在地貴族であった上ブルグンド公Ruprechtが皇帝に選ばれた。成人したWolfgangの息子たちの反乱を鎮圧したRuprechtは支配の地盤を固め、4代にわたる王朝の基礎を築き、大帝と称される。なお、ボソン家はBonaがRuprecht大帝の息子を婿に迎えており、Guilhem以降の代では厳密な意味の男系ではノイエンブルク家に属することとなる。ノイエンブルク家、ボソン家の双方がブルグンド王国内に出自を持つことから、この両者を区別せず「ブルグンド朝」と称する場合もある。Leopold帝がエルサレム王国の防衛戦にて戦死し、断絶した。

ロンバルディア朝

1228年、Leopold残忍帝がエルサレム王国の防衛戦に斃れると、ノイエンブルク朝は断絶した。帝国を継承したのはロンバルディア公Lutbertであった。Lutbertは在地貴族の出身で、正式な家名はvon Wettinであるが、あまり知られていないこともあり、この系統は「ロンバルディア朝」と称される。十字軍への不参加や叙任権の独占を問題視され、Poppo I世、Poppo II世の父子はともに教皇から破門に処された。Poppo II世の死去により断絶した。

ボソン朝

急逝したPoppo II世の後を受けて戴冠したAdalbertが興した王朝。Adalbert以降総ての皇帝の男系は正確にはボソIII世にではなく、ノイエンブルク家に続いており、ノイエンブルク朝と同一の王朝と考える歴史学者も多い。その場合、両家がともにブルグンド王国に出自を持つことから「ブルグンド朝」と称する。一方、フランクローマ皇帝ルドウィクスIII世(ルイ盲目王)はボソン家の人物であるがAdalbertとは400年も離れており、同一王朝とは捉えないことが多い。

その他

オランジュ家

プロヴァンス公の臣下としてヴェネッサンに領地を有していた家系。Toumasは名宰相として名を馳せた。幾度も政権の簒奪を試み、ついにElenaがプロヴァンス女公となったが、幼い息子Ruprechtを遺しこの世を去った。この過程でヴェネッサンを喪ったオランジュ家は歴史から姿を消した。

カイコバード朝

セルジューク朝の王Urucの孫で私生児として生まれたKaiqobadがセルジューク朝の旧領を簒奪する形で興した王朝。中央アジアからペルシャ、メソポタミア、アナトリアに至る広大な版図を実現した。

シュトゥットガルト

Heinrich VI世が帝位に就いた際、プロヴァンスを相続できなかったことからボソン朝神聖ローマ帝国の宮廷はシュトゥットガルトに置かれるようになった。豊かな土地ではなかったが、西欧の中央に位置し、統治上の利便性には優れていた。


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Last-modified: 2014-12-29 (月) 11:35:40