決戦 †1260年に宣言されたファーティマ朝のアナトリアのジハードにおいて、 これまでの西地中海での戦いすべてにおいて陣頭指揮を旨としていたJohnny D帝はこのころになると、帝国内でも屈指の名将として知られるようになっていた。 Johnny D帝には「負けられない」という一種の強迫観念に近いものがあり、1961年の一年だけで彼の体重は10kgも落ちたといわれている。 実際、ここで負ければ帝国はその東部領域をほぼすべて失うことになり、聖地の奪還の望みは絶たれるといっても過言ではなかった。 暗雲 †この頃Johnny D帝は、過剰なプレッシャーに晒されていた。 そして1262年、Johnny D帝はストレス症状に苦しめられてきた帝は 後継帝のJamilはアヴェルサで行われた即位式にて、高らかに演説した。 しかしそのような威勢のいい演説も、父のように慕った皇帝を失った軍の士気を立て直すには至らなかった。 "我が国の威信と個人的な名誉、そして父帝の名にかけて領土を失うことはありえない。” 1263年9月、ファーティマ朝軍がアナトリア北端に到達。 不敵 †しかし、Jamil帝は不敵に笑っていた。 山がちなアナトリア半島で大軍を維持することは難しい。 Jamil帝は自ら先頭に立って奮戦し、兵力を回復させるために小休止を挟みながら徐々にファーティマ朝軍を駆逐していく。 そして1264年にはアルマクディス軍は勢力を盛り返し、ファーティマ朝軍の大部分が撤退した。 しかしながら翌1965年、今度はJamil帝が馬上で矢を受け、落馬。戦死してしまう。 終戦 †父を失い、幼くして帝位についた8歳の女帝Kamalaは、当時の帝都マラケシュで慌ただしく即位式を終えると、摂政Grimの意向により、戦場の兵たちを慰問し士気を大いに向上させた。 1266年から69年にかけて、ファーティマ朝は最終攻勢を仕掛けるが そして1270年、足掛け11年にもわたる長いアナトリア戦争が終結する。 帝国の旗は、未だアナトリアに翻っていた。 つづく |