[[オートヴィル家 1204年>AAR/オートヴィル家 1204年]]
*アルビニア・ドートヴィル [#p04bfe3a]
燃えさかる都の夢を見ていた。

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皇帝の兵士たちは家々に火をつけ、食糧を奪い、
逃げまどう民の背中に槍を突き立てた。

炎上する宮殿のなかで、死んだ父と兄が待っていた。
二人は剣を差し出し、こう言った。

>「おまえは今までどこに隠れていたのか?
> 剣を振るえ、アルビニア。おまえの王国を取り戻せ」

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そしていつもアルビニアはそこで目覚めるのだった。

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主の1204年、12月。
教皇インノケンティウス3世号令のもと第4回十字軍が行われ、
ラテン帝国が樹立された記念すべき年の暮れ。

アルビニアはイタリア半島の先にあるレッチェに帰ってきた。

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 アルビニア・ドートヴィル 元シチリア王女

ずっとドイツの城に囚われていたのだ。
陽光あふれるアプリアの風景を覚えていなくても無理はなかった。
そう、あのオートヴィル家の落日から数えてもう10年になる。

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オートヴィル家は北仏ノルマンディーの出である。
放浪騎士ロベール・ギスカールとその一党が南伊・シチリアを征服して以来、
王として当地のイタリア人、ギリシア人、ムスリムを統べてきた誇り高き一族だ。

先のシチリア王[[タンクレード:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%82%af%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%87%e3%82%a3_%28%e3%82%b7%e3%83%81%e3%83%aa%e3%82%a2%e7%8e%8b%29]]は勇敢な戦士だった。
シチリアを侵略する神聖ローマ皇帝と戦い、国を守った。
だがその死後、ふたたび皇帝が攻めてきてノルマン人たちは負けた。

皇帝軍はシチリアの王都パレルモを蹂躙した。
アルビニアの兄ギヨームは皇帝ハインリヒ6世の命令によって目を潰され、
去勢され、不具者にされたあげく獄死した。
そして父タンクレードの遺骸は墓から引きずり出され、首を落とされた。
皇帝はオートヴィルの名誉を徹底的に踏みにじったのち、シチリア王冠を戴冠した。

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王女アルビニアは姉妹とともにドイツの城に囚われた。
しかし教皇インノケンティウス3世の骨折りもあって、
16歳になると解放され、一族ゆかりの地レッチェに帰ることになった。

当時、皇帝と教皇は熾烈な権力闘争を繰り広げていた。
ドイツとイタリアを支配するホーエンシュタウフェン皇帝家の勢力を削ぐために送りこまれた駒。
それがアルビニア・ドートヴィルだったのだ。

ホーエンシュタウフェン家はしぶしぶ教皇の提案を受け入れた。
旧支配者オートヴィルへの寛大な扱いを示すという名目で、
レッチェとタラントがアルビニアに安堵された。

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たった2つの伯領。
ノルマンディーからやってきた祖先たちのように、
アルビニアはまたここから始めなければいけない。

**謁見 [#g216ed8b]
>「レッチェおよびタラント女伯、アルビニア・ドートヴィル!」

ナポリのカプアーノ宮殿、謁見の間。
触れ役が高らかに声をあげ、王の前にアルビニアを呼び出した。

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>「レッチェの忠勤を期待する」

[[フリードリヒ・フォン・ホーエンシュタウフェン:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%95%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%89%e3%83%aa%e3%83%922%e4%b8%96_%28%e7%a5%9e%e8%81%96%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%9e%e7%9a%87%e5%b8%9d%29]]が幼い声で告げた。

わずか10歳のシチリア王。
アルビニアの大叔母コンスタンス・ドートヴィルとハインリヒ6世帝の嫡子だ。
後見人であるインノケンティウス3世の裁定により、
ドイツ王冠は叔父フィリップに、シチリア王冠はフリードリヒに与えられた。

フリードリヒは両手で剣を持ち、臣従礼をとりおこなう。
アルビニアは黙って頭を垂れている。
だがその拳は固く握られている。

この少年は王位簒奪者であり、敵であり、
血族の名誉をかけて滅ぼすべきホーエンシュタウフェンなのだ。

アルビニアはレッチェ女伯としてドイツ人の王に忠誠を誓う。
だが心の奥では決意していた。
ドイツ人を放逐し、自分の王国を取り戻すことを。

**足場を固める [#q36084b9]
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君主が第一になすべき事は自らの婚姻である。
アルビニアは伴侶として遠縁のシラクサ伯ロジェ・ドートヴィルを選んだ。
もちろん、オートヴィル家の領地を統合するつもりなのだ。

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また姉メダニアをエピロス専制侯[[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e3%83%9f%e3%82%ab%e3%82%a8%e3%83%ab1%e4%b8%96%e3%82%b3%e3%83%a0%e3%83%8d%e3%83%8e%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%83%89%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%82%b9]]のもとへ嫁がせた。
ミカエル1世はラテン帝国やヴェネツィアとの戦いに助力を必要としていたので、
アルビニアはその後たびたびオトラント海峡を越えて軍を送った。
そのかわりミカエル1世はオートヴィル家による専制侯領の継承を認めた。

さらに妹コンスタンスを主君であるシチリア王フリードリヒと婚約させ、
万が一の事態、すなわちホーエンシュタウフェン家による
オートヴィル家放逐の危機に備えた。

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主の1205年、春。
不発に終わった[[第4回十字軍:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%ac%ac4%e5%9b%9e%e5%8d%81%e5%ad%97%e8%bb%8d]]のやり直しを教皇が命じ、
諸国の兵が続々とパレスティナに渡っていった頃、アルビニアは元気な初子を産んだ。
初子は父にちなんで小ロジェと名付けられた。

オートヴィル家の将来を担う男子の誕生に
アルビニアとロジェは手に手をとって喜びあった。

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主の1209年、7月。
アルビニアは隣国カタンツァロに軍を送った。
戦は2年続いたが、夫ロジェの援軍3000のおかげでカタンツァロは落ちた。
アルビニアの直轄領は3つとなった。

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同じ頃パレスティナでは、再編成された第4回十字軍がイェルサレムの奪還に成功し、
教皇インノケンティウス3世の勢威はいやが上にも高まった。
しかしアルビニアには十字軍に参加するような余裕はなかった。
彼女の目はイタリアに向けられていたのである。

**挑戦の開始 [#m952c641]
主の1219年、秋。
妹コンスタンスがフリードリヒ王のもとへ輿入れして8年が経っていた。
アルビニアがナポリのカプアーノ宮に呼ばれた時、その事件は起きた。

>「レッチェは何か望みがあるか。申してみよ」

#ref(titleshouldbemine.jpg,nolink)
アルビニアは若いフリードリヒ王を目の前にして黙っていたが、
しばらくしてこう言った。

>「オートヴィルの伝統ある称号、アプリアおよびカラブリア公位ならば
そろそろ返していただいてもよいかと存じます」

#ref(kingsanswer.jpg,nolink)
その言い方が気に障ったのか、王は激しく怒って席を立った。

アルビニアはなぜ王を怒らせるようなことを言ったのだろうか。
「教皇派の立場を明確にした」「感情の昂り」など歴史家の見解は一致していないが、
わたしはアルビニアが「王権への挑戦を宣言した」のではないかと思っている。

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#ref(kriemhild_vonhohenstaufen.jpg,nolink)
主の1222年、3月。
フリードリヒ王が28歳という若さで亡くなり、
長女クリームヒルト・フォン・ホーエンシュタウフェンがシチリア女王に即位した。
クリームヒルトはまだ幼かったため、ドイツ騎士エンゲルブレヒトが摂政についた。

#ref(apulia1222.jpg,nolink)
同日、エンゲルブレヒトはアプリア公、シチリア公、カプア伯を創設。
シチリア公位とカプア伯位をホーエンシュタウフェンの王女に分け与え、みずからはアプリア公を名乗った。
そしてレッチェに居城を置くアルビニアはアプリア公の配下に。

この出来事はアルビニアの感情を大いに害した。

#ref(grandfestinnapoli.jpg,nolink)

>『このたび、ナポリにて宴を催す。諸侯はこぞって参加するように。摂政エンゲルブレヒト』
>「否。ナポリへなど行かぬ!」

アルビニアはナポリでの大宴会の誘いに応じず、
それどころかエンゲルブレヒトが所有するバリ領への請求権を捏造して
これを力ずくで奪取したのである。

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 1225年、バリ戦争に勝利し再独立
 エンゲルブレヒトは北アフリカにも領土があり、アプリア公家は存続した

>「さすがオートヴィル家の娘は猛々しい。王国摂政相手にも平気で噛みつく」

と人々は噂した。

「病王」と呼ばれたクリームヒルトはこの事態を憂い、さまざま手を尽くしたが、
教皇インノケンティウス3世が後ろについていることもあり、
アルビニア率いるオートヴィル家の勢いを止めることはできなかった。

そしてレッチェ軍は返す刀でフォッジアのセラーニ家を攻める。
ほとんど抵抗はなく、アルビニアはあっという間に5つ目の直轄領を領地に加えた。

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 1228年のシチリア王国とエピロス伯国
 依然ホーエンシュタウフェン家が領土の大半を領する
 エピロスを継いだ甥ジョスランは隣国に攻められて領土を失った

#br
ところで、アルビニアはよく領地を巡察した。
それも1人の息子と4人の娘を産み育てながらの事である。

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フォッジア領には聖地モンテガルガノがある。
大天使ミカエルが顕現する地と言われ、
はるばるノルマンディーからオートヴィル家の祖先が巡礼にやってきたのもここだ。
ノルマン人たちはそのままイタリアに居着き、そして傭兵として活躍を始めた。

アルビニアはフォッジアを落とすとすぐに、子供たちを連れてモンテガルガノを訪れた。
ここがなければオートヴィル家の歴史は始まらなかった。
そして自分もここにはいなかった。
彼女は震えるような感動にひたり、石畳の上で祈り続けた。

巡礼から帰るとアルビニアはひどい風邪をひいた。
そして頭痛と寒気が治まらず、まだ40歳だというのに体の節々の痛みを訴えた。
サレルノから来た医者は薬湯と湿布を処方したが、
彼女の容態は日に日に重くなるばかりだった。

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そしてついに主の1230年1月、アルビニア・ドートヴィルは息を引き取った。

夫ロジェに子供たちのことを何度も頼み、
アプリア公位とカラブリア公位を回復できなかったことを悔やみながら死んだ。
レッチェ伯位は息子の小ロジェに引き継がれた。

囚われの身から国を起こし、5つの領地を勝ち取ったノルマンの王女。
アルビニア・ドートヴィルの亡骸は今もモンテガルガノに葬られている。

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[[ロジェ・ドートヴィル>AAR/オートヴィル家 1204年/ロジェ・ドートヴィル]]

[[オートヴィル家 1204年>AAR/オートヴィル家 1204年]]

TIME:"2012-09-30 (日) 22:05:13"

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