AAR/ギデオン家の人びと

いやな感じ

 シミエンも当時は小さな国だった。痩せた赤土の上に、街と呼ぶには簡素すぎる住居の密集地帯がときどき思いだしたようにへばりついているだけで、人里からすこしでも離れれば――林の奥や河の深みには実に多くの魔が住まっていた。それでも、土地から得られるものはわれわれをいくらか豊かにしてくれた。たまによそからユダヤ教徒がぽつりと現れて集落をつくることがあったが、新しい村には名前のないものが山ほどあって、話をするときはいちいち指ささなければならなかった。

シミエンの宰相、ブウォロ・ブウォロ

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左:シミエン領(緑)と周辺地図 右:宗教情勢

シミエンのフィニアス

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シミエンのフィニアス

 夫がなぜわたくしを妻に選んだのか、それは今になってみても、やはりわかりません。
 ただ申し上げておけば、この土地には、やんごとなき出自の家がギデオン家の他にはなかったのです。また、この土地の外のものは、わたしくしたちユダヤ教徒を軽蔑し、結婚などもってのほかだといいます。そういうわけで、わたくしのような山だし娘でも娶るよりないのでしょう。

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結婚できるのはテルーという少女ただ一人

 シミエンの民が、この苦しくともささやかな秩序を捨てさろうと考えたのはいつごろだったでしょうか。
祖先が血を流し、山を超え、そうしてようやく切りとった、わずかばかりの土地から遠く離れることを決めたのは。やはりそれも、わたくしにはわからないのです。
いいえ、ごめんなさい。それでも、なにごとかにきっかけを見出すのは語り手の仕事かもしれません。わたくしはそれをお話ししなければなりません。

 あれはわたくしが宮廷へ呼ばれてすぐのことでした。妻となって日も浅く、そこで目にするなにもかもに驚き、野良仕事と歌のほかにはなにも知らない自分に、いくばくかの居心地の悪さを感じていたころです。
 その時分、シミエンにはいたずらじみた噂が流れていました。いわく、"東のソロモン朝が大軍勢をひきいて攻めてくる。ユダヤ教徒は皆殺しだ"。もちろん、わたくしたちの大半はこのばかげた噂に耳を貸しませんでした。もう満足に目も開けられない老人たちが赤んぼうのころから、そんなおそろしいことは一度もなかったのですから。――さきに申し上げておきますと、夫があの噂を真に受けていたのかどうか、わたくしは確信がもてないでいます。今となってはそれを確かめるすべもありません。
 ただ、そんなときだったのです。ある日の夕食どき、急に椀を持つ手を止めて、夫はぽつりといいました。

 http://art21.photozou.jp/pub/910/3136910/photo/214178984_org.v1415736908.jpg「いやな感じだ」

 http://art21.photozou.jp/pub/910/3136910/photo/214178984_org.v1415736908.jpg「いやな感じがする」

 そうつぶやくなり、食べかけの皿などには目もくれず、大急ぎでどこかへ行ってしまったのです。その日の夜、ついに夫は戻ってきませんでした。
 わたくしたちに事の次第があきらかになったのは、それから2、3日後のことですがーーわたくしはほんとうに、宮殿中のあらゆるものが軋む音を聞きました。また、絵という絵のなかの人物の顔がゆがむのを見ました。夜、廊下のすみで廷臣たちがささやくのを聞いたこともあります。あのような根も葉もない噂に振り回されるとはどういうことだ。俗物め。魔にでも憑かれたか。夫は、ひとことの理由も告げぬまま国中で兵を起こし、シミエンの中心部へと集合させつつありました。

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開始と同時に挙兵。兵をシミエンに集結させておく。理由は……

 このような徴兵はいたずらに民草を疲弊させるものである。わたくしたちのよき相談役であったブウォロ・ブウォロさえ、そう申し立てたほどです。シミエンでの徴兵など、実にいつぶりのことだったでしょう。あのときはじめて、わたくしたちは自分たちの仕える王をおそろしく思いました――いいえ、わたくしたちが真におそろしかったのは、あの夫の突拍子もない行動がわたくしたちの命を救ったということのほうなのです。

山を渡って木立を越えて

 なにかが頬をなでている――それからいく月も経たぬ日の明け方、わたくしはそんな感覚に眠りをさえぎられました。 それが夫の手だとわかるまで時間はかかりませんでした。なんとなくばつの悪い気がして、まぶたは閉じたままでいました。晩から降りだした雨はまだやんでいないようで、石壁をたたく音が外の寒さを思わせました。まどろんでいるせいか、夫の手はいつもよりやさしげに感じられ、しかしそれはすぐにわたくしの顔を離れました。いくばくかの間。遠ざかっていく足音。わたくしはぼんやり目を開ける。うっすらと夫の後ろ姿が見える……。

 そうしてつぎに目を覚ましたのは、夫が戦場へ発ってからずいぶんあとのことでした。

http://art29.photozou.jp/pub/910/3136910/photo/214929787_org.v1416931668.jpg「洗礼を受けるものは祖先の土地を受け継ぐことができるだろう。そうでないものは、Falāsī [持たざるもの]となるがいい!」

 769年4月2日明朝、アビシニア王国はユダヤの地シミエンへと聖戦を布告した。ながい黙認の終わりだった。シミエンの王、フィニアス・ギデオンはこれを事前に察知し、結集させてあった兵とともに敵の首府アクスムへと行軍をはじめた。雨と寒さのなかの山越えだったが、意外なほど兵の士気は高かった。預言者じみたかれらの王の"備え"に、さまざまな憶測やおしゃべりが加えられ、靄のかかった山々はにぎやかな客人の行進をおどろきつつ見守っていた。

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98%の確率で宣戦布告してくるアビシニア(ソロモン朝)。彼我の兵力差は400ほど

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敵の士気が不十分なうちにアクスムの本隊を叩く。周辺の部隊が加勢を試みようとするがまにあわない

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攻城戦に移ると兵力が磨耗するので野戦で戦勝点をためる

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あとすこし。ここで負けると滅亡するのでがんばる

継ぐものたち

 古い金貨に満たされた箱、燃えさかる赤や緑の貴石、ていねいな細工が施された象牙のたぐい。そんなものがつぎつぎに運びこまれるのを、わたくしはただ目を丸くして見ておりました。おそらく、廷臣たちもみな同じ心持ちだったでしょう。
 シミエンの男たちがアビシニアをくだしたという噂は、国境の村々から広がり、数週間前にはこの地まで届いていました。その男たちがたいへんな戦利品をたずさえて、ついに故郷へ帰ってきたのです。
 ブウォロ・ブウォロが財務官になにごとかを言いつけると、その品々はすみやかに黴とねずみの支配する地下の蔵へと移され、国中でもっとも重い錠がおろされました。

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先の戦いの賠償金でうるおう国庫

 夫に伴われて戦場に向かった廷臣のひとりが、まだ鎧をまとったままの姿でわたくしたちの前にあらわれました。
 ああ、よかった。あなたは無事だったのですね。わたくしがそう声をかけると、その者はなにかに耐えているという風にうつむいたまま、おし黙っていましたが、やがて口を開きました。
 奥さま。わたしたちの主――フィニアス様はご戦死なされました。敗走する敵を追ってアクスム近郊の林を駆けているとき、待ち伏せに遭い、落馬したところをいく本もの槍に突かれたと聞きます。わたしはこれを名誉の殉教と思っております……。

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おどろきのあまり継承画面を撮り忘れていた

 それからのことは――わたくしはなにか自分とはいっさい関係のないことのようにただぼうっと眺めておりましたーー王の死と、勝利と、ユダヤの教えと、あらっぽい伝統とが混じりあった奇妙な宴が開かれ、10日のあいだは、杯が乾くことも祈りが止むこともありませんでした。
 わたくしたちの命を救ったあの"いやな感じ"がなんだったのか――みな曖昧な顔をするだけでしたが、調子のいいものは、かの王は天啓を受けたとか、この地を興した者の生まれ変わりであったとか、酒気に勇気づけられてめちゃくちゃに謳うのでした。はやばやと宴から引き上げて、寝室の錠をおろしたとたん、わたくしの目から嘘のように涙があふれてきて、とまりませんでした。

 そうして自室で木偶のように横たわっているあいだに、高揚とお祭り騒ぎが去り、戦死者への祈りも途切れ途切れになったころ、ようやくわたくしはギデオン・ギデオンの目の奥で光る暗い火に気がついたのです。

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ギデオン・ギデオン。はじめから用意されている後継者で母は設定されていない

 つづきは明日にしましょう。そこまで語ると、テルーは客人たちを家に返した。かの女の身体は日に日にちいさくなっていくばかりで、薬も呪術も祈りもさほど効果をあげていないようだった。一日の大半を寝具とともに過ごすようになってからも、なにごとかを恨んだりはしなかった。ただ、心の片すみに義務感のようなものが芽生えた。早晩忘れさられるだろうフィニアス。誰かにわたくしの見たものをお話しておきたい。それはほんとうにちいさなわがままだった。いまテルーの病室を出て帰路につく人びとのなかに、白い肌の男が混じっていた。これはシミエンに流れついたユダヤ教徒のひとりで、かの女は知らなかったが、あの奇妙な図の連なり――文字を書くことができるのだった。

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海を渡ってやってきたユダヤ教徒

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フィニアスの死から3年後、テルーは病没した
つづく

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Last-modified: 2014-11-26 (水) 02:09:37 (1331d)