AAR/スクショで見る十字軍物語/ミンダウガス家

ポロツク公タウトヴィラス

 ミンダウガスの甥であったポロツク公は、ポロツクに2プロヴィンスをもつ小貴族だったが、もともとのプロヴィンス数が少ないリトアニア王国では大きな政治的影響力を持っていた。
 ミンダウガスはその治世の間、度々王権の強化をもくろんだが、すべてこのポロツク公の反対にあって実現できなかった。ポロツク公としては、リトアニア王が配下の所領を召し上げる権利をもつことだけは何としても防がなければならなかったのである。
 ミンダウガス没後、彼の三人の息子がリトアニアの王位を争った。長男が正式なリトアニア王だったが、次男と三男は僭称者としてこれに対抗した。ポロツク公は三男に味方して反乱を援助した。一度目の反乱は失敗におわり、ポロツク公は投獄された。しかし彼は屈しなかった。
 釈放されたあとも、ポロツク公は三男と連絡をとり、再起の機会を待っていた。彼は王位継承法を年長者相続制にする派閥をつくり、そのリーダーとなった。彼は三男がリーダーであったリトアニア王位転覆の派閥にも加盟していた。
 ポロツク公らの二度目の反乱は、1273年に起こった。この前年、リトアニア王はスモレンスクのギリシャ正教徒たちの征伐に赴き、敗北し、軍の疲弊と国内の不満をまねいていた。ポロツク公はこれを機会に、リトアニア王に王位継承法を年長者相続制に変更するようせまった。リトアニア王はこれに屈さざるを得なかった。気をよくしたポロツク公らは、僭称者である王の弟を担いで反乱をおこした。リトアニア王はデンマーク王とスウェーデン王に泣きついてこれを鎮圧したが、王の権威は著しく低下しており、もはや王は反乱者たちを投獄する力を持ち合わせていなかった。ポロツク公と僭称者たちは和平には同意したものの、投獄されることもなく、領有地に帰って行った。継承法は年長者相続制に変更されていたので、いまのリトアニア王が亡くなれば、次のリトアニア王はポロツク公だった。

リトアニア王タウトヴィラスと彼の王国

 1274年、リトアニア王が不審な事故で死んだ。これが陰謀であることは誰の目にも明らかだった。ポロツク公は陰謀と猜疑と混乱のなか、リトアニア王位を戴冠した。

 ポロツク公はその後二十年にわたってリトアニア王国を統治し、八十二歳で没した。彼の治世はリトアニアにとって有益だった。彼の統治は安定していて、反乱者に対しては宥和的で、異教徒に対しては苛烈で、カトリックの王たちに対しては友好的だった。多くの異教のプロヴィンスがカトリックに改宗した。デンマーク王、スウェーデン王、ポーランド王たちとの婚姻関係は幾重にも張り巡らされ、リトアニア王国の危機には彼らはまっさきに駆けつけた。
 ポロツク公の没後、彼の後継者たちはスモレンスク、トヴェーリ、プスコフらを陥れた。バルト傭兵団とチュートン騎士団はリトアニア王国の鉄の両腕として異教徒たちを粉砕した。
 しかしリトアニア王国の東進は、モンゴル人たちによって押しとどめられた。ゴールデンオルドは強大だった。ルリコヴィチ家のロシア人たちは皆、屈服し、タタールの軛のもとに置かれた。ノヴゴロド共和国はモンゴル人たちの無慈悲な暴力の前に滅亡した。リトアニア南東部の国境で、リトアニアを前衛とするカトリック世界とモンゴル人たちの帝国は対峙した。

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13世紀末の東ヨーロッパ

 ポロツク公が没し、彼の息子たちが次々世を去り、リトアニア王国は何代も何代も歴史をかさねていった。
 1337年、のちに「大王」と呼ばれるリトアニア王ヴィタウタスが即位した。彼は外交力22が取り柄の有能な行政官だったが、カトリック世界とモンゴル帝国という巨大な二つの文明圏のはざまにあっては君主個人の多少の有能さがなんになろう。彼もまた、はじめはリトアニア王国の年代記につらなる無個性な君主の一人に終わるだろうと思われていた。だが、歴史は彼に偉大な役割を与えたのである。歴史の転換点は1351年にやってきた。

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14世紀半ばの東ヨーロッパ

 ゴールデンオルドが内乱に陥ったのだ。

大王ヴィタウタスの事績

 ロシアの平原からドニエプロ川を経てカラパチア山脈に至る強大なゴールデンオルドだったが、その内部事情は複雑だった。モンゴルのハンは異教を信じていたが、帝国の臣民たちの多くはギリシャ正教かイスラム教を信じていた。ゴールデンオルドの封建領主たちは、ロシアのルリコヴィチ家やカフカスのムスリム諸侯など、多種多様な文化と宗教を有していた。また、モンゴルは一夫多妻制をとっていたため、血縁者が非常に多かった。彼らに土地が分配されるためには絶えず勢力を拡大していなければならなかったが、ロシアを征服し、ウクライナを踏破し、バルカン半島にまで至ったところで、ゴールデンオルドはありとあらゆる勢力からの抵抗をうけ、領土拡大を諦めざるを得なくなった。偉大なバトゥの血をひく者たちは、土地もなく、配偶者もなく、不満を募らせていった。
 ウラジミール・スズダリに二つのプロヴィンスを領有していたハンの従兄弟は野心家だった。彼は自分がわずか数個のプロヴィンスを支配するだけの器であるとは思わず、ハンの位を欲していた。彼は有能でもあった。モンゴル人の支配を快く思っていなかったロシア人貴族やムスリム諸侯たちと結束して、1351年、ハンに反旗を翻した。帝国の三分の一の諸侯がこの反乱者に従った。もう三分の一は反乱には同調しなかったが、ハンの支配から脱して独立国になった。最後の三分の一だけがハンに従ったが、彼らは士気のうえでは反乱者たちに劣っていた。帝国は長年の支配に堕落しきっていた。彼らは退廃していた。
 内乱は深刻だった。ゴールデンオルドのハンは、反乱のさなか、戦死した。ハンに忠誠を誓ったみあげた貴族たちは、ハンの遺児を担いで統治の正統性を主張していた。しかし劣勢は覆しようもなかった。反乱者たちは各地で勝利した。数年にわたる血みどろの内戦のすえ、野心家の従兄弟はハンの座を強奪することに成功した。ゴールデンオルドの政変の顛末は以上のような経過を辿った。

 リトアニア王国にとって、政敵たちのこの仲間割れは僥倖だった。白ロシアからウクライナに至る肥沃な大地が、ゴールデンオルドの支配から独立した小貴族の乱立によって埋め尽くされた。リトアニア王ヴィタウタスはすぐさま動員令を発した。リトアニアの35000の軍勢がキリスト教の大義を東方に広めるという偉大な事業に参加した。これはちょっとした東方十字軍だった。スウェーデンやデンマークといった諸侯も、援軍をだした。バルト傭兵団は15000の兵力を拠出した。チュートン騎士団は10000人の騎士たちをリトアニア王の麾下に派遣した。彼らはヴィタウタスの命令のもと、東へ赴いた。
 東へ、東へ! キエフ、ペレスバル、チェルニゴフなどが十字軍の対象となった。これらの地域は、わずか数年でリトアニア王国に征服された。そのやや東方のニジニノヴゴロドにも独立貴族がいたので、王はチュートン騎士団を派遣してこれを攻撃した。彼らの抵抗は激しく、一時は撤退も余儀なくされたが、兵力を集中させて再攻撃し、ようやくこの地域も併合した。ルシタニアと呼ばれるこれらの地域の半分を領有したことによって、ヴィタウタスはルシタニア王位を戴冠する権利を得た*1。ながらくモンゴル人たちの支配下にあったこれらの土地を、大幅にもぎとったことは、カトリック世界の賞賛にあった。ヴィタウタスはいまや「大王 The Great」と呼ばれた。彼の動員できた兵力は60000にも及んだ。彼の威信は4000にも達した。彼の征服したセツルメントは50を超えた。
 大王はさらに勢力拡大に傾注した。そして挫折した。ルシタニアの大半を得たあと、さらにサケルを攻撃するところまではよかった。ゴールデンオルドから独立した貴族たちの中で一番大きな勢力をもっていたここの土豪は、しかし近隣諸国との小競り合いで勢力を消耗させていた。彼らは大王の軍勢の前に屈した。あらたに30のセツルメントが大王の領域に編入された。つぎに大王はガリーチの併合をはかった。そして50000の兵力を動員してこれを攻撃した。ガリーチ公は貧しい小貴族だったので、この征服事業も容易に成功すると思われた。しかしその頃には、既にゴールデンオルドの内乱は終結していた。あたらしくハンの座についた反乱者は、内乱のあいだ帝国の西半分がキリスト教徒たちにもぎとられたことに立腹していた。ハンは、世界最強のモンゴル軍をガリーチの救援のために動員した。ガリーチの城は堅く、守備兵は強かったので、リトアニア王の50000の軍勢は攻城や野戦で30000ほどに減少していた。そこに、世界最強のモンゴル軍が40000という数でやってきた。大王ヴィタウタスは恐怖し、いくさの終結を模索した。白紙和平による終戦協定が締結され、戦争は終わった。
 痛み分けの和平とはいえ、ルシタニア征服事業の挫折は大王にとって心痛める出来事だった。モンゴルはまだまだ強く、リトアニアの国力では彼らを排除して戦略目標を達成することはできなかった。「モンゴルに気をつけろ」。大王は病床で息子たちにそう言い残して、没した。1383年のことだった。

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大王の征服事業

(続く)


*1 ルシタニア王位を得るのは、諸事情があって大王の治世よりあとのことになる。

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Last-modified: 2013-04-23 (火) 22:54:13 (1941d)