AAR/ローマの長女

ローマの長女 769年~907年

初代

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コンスタンティオス“肥満公”クリニテス(?~807)はギリシャ人の貴族。クリニテス王朝の創始者。テマ・トレビゾンドのストラテゴス。

生年などは不明だが、トラペズスの生まれとされる。後に王朝名ともなるクリニテスとはコンスタンティオスの父の名であり、父親を深く尊敬していたコンスタンティオスは署名の際に自分の名の後、父の名も続けて書いていたと言う。
青年期に皇帝コンスタンティオス5世の近衛兵として近侍し、知遇を得る。その後の動向は定かではないが、769年にランゴバルドの王女ゲルベルガを妻に迎えている。この時には、既にテマ・トレビゾンドのストラテゴスの地位にあった。
776年、嫡子となるアントニオスを授かる。
780年、コンスタンティオスの支配に反抗したカルデアの土豪を征討し、所領を没収する。コンスタンティオスはこの後もテマ内の支配を強め、790年頃にはテマ・トレビゾンド全域を直轄支配するようになる。
804年、皇帝エウドキモスの主催したカルケドン公会議にてイコン礼拝禁止が解除され、正教の正統性が確認された。コンスタンティオスも皇帝に従い、正教へと回帰した。
807年死去。天然痘によるものとされている。
所領は嫡子アントニオスに継承された。

二代目

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アントニオス・クリニテス(776~839)は、ギリシャ人の貴族。テマ・トレビゾンドのストラテゴス。

807年の父コンスタンティオス死去後、その所領を引き継ぐ。同時に、テマ・トレビゾンドのストラテゴスにも任命された。
808年、アミソス伯の妻ヴァレリアとの間に嫡子コンスタンティオスが生まれる。
813年から822年にかけ、帝国は宗教政策を巡り大きく分裂する。皇帝エウドキモスの聖像破壊派再回帰に諸侯は大きく反発。退位に伴い担ぎ上げられた新皇帝ヘクトリオスは、紫衣を纏うやいなやカトリック信仰を明らかにした。これにより帝国内は聖像破壊派、カトリック派、旧来の正教派の3派が血で血を洗う内戦へと突入した。
823年、それまで静観していたアントニオスが事態の収拾を図る。アントニオスは正教派の諸侯をまとめ上げ、皇弟クリストフォロスを推戴して、帝国国内を武力でもって制圧した。反対派の諸侯の多くは禁錮刑か、若しくは所領を没収された。
この一事は、帝国内でのクリニテス家の権威を著しく向上させるきっかけとなった。
834年、25歳の若さで嫡子コンスタンティオスが死ぬ。
839年、アントニオス死去。享年62歳。所領は三男メギストスが継承した。

三代目

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メギストス“痛風王”クリニテス(820~885)は、ギリシャ人の君主。ポントス王。

839年に父アントニオスが死去した為、所領を引き継ぐ。だが、父の代では即日任命されたテマ・トレビゾンドのストラテゴスの地位は、皇弟のコンスタンスに渡された。これを不服としたメギストスは、テオドシオポリスに設置された総督府前に自下の兵士を並べ、コンスタンスにトレビゾンドの「ドゥクス」の地位の移譲と、トレビゾンドからの退去を要求した。コンスタンスは了承し、以後トレビゾンドのストラテゴスはクリニテス家の世襲となった。
843年、母ヴァレリアが死去。アミソスの領地を継承する。
844年、父アントニオスの擁立した皇帝クリストフォロスが暗殺される。帝位に就いたのは「カトリック者」ヘクトリオスだった。だが彼も845年、反乱を鎮圧中に流れ矢に当たり死去する。
新しく帝冠を頭上に戴いたのは、メギストスの妻、エウニケ・イサウロスであった。
851年、メギストスはテマ・アルメニアコン全域の支配権を確立した。
同年、メギストスは諸侯から一段抜けた「王」へと登る。当初は「トレビゾンドの王」と署名をしていたが、やがて古代のポントス王国にちなみ「ポントスの王」と名乗るようになった。
852年、妻で皇帝のエウニケが死去する。皇帝位に就いたのは、メギストスとエウニケの娘エウドキシア・クリニテスであった。
854年、後妻ウルリケとの間に嫡子アントニオスが生まれる。
858年、幼い娘エウドキシアが暗殺される。これにより、皇帝位は再びイサウロス家に戻った。
866年、嫡子アントニオスが死んだ。宮廷内には次男コンスタンティオスの関与が囁かれ、アントニオスの心を痛めた。
878年、皇帝ニフォンが退位。諸侯が推したのはヘクトリオスの末弟コンスタスであった。
885年、メギストス死去。65歳であった。所領は次男のコンスタンティオスが継承した。

四代目

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コンスタンティオス“残虐王”クリニテス(860~907)はギリシャ人の君主。ポントス王。

幼少時より、コンスタンティオスには不穏な噂が付きまとっていた。姉のマリア、兄のアントニオスが死んだのは、コンスタンティオスの仕業だという噂が宮廷内に渦巻いていた。人々は彼の事を、「悪魔の子」と呼び恐れた。
885年に父メギストスが死に、コンスタンティオスはポントス王となる。宮廷内は恐怖で支配され、時折何の知らせもなく失踪する者がいても、その事自体口にする事が憚られた。
891年の王妃マハウト失踪、翌年には1歳になったばかりの娘シビュラが失踪したが、これらに関しても詳細な記録は全く残っていない。
907年に死去。コンスタンティオスが死んだという噂を聞いた民衆は喜び、葬儀の最中も笑い声や侮蔑の声が絶えなかったという。所領は全て、嫡子マクシモスが相続した。

悪王と断じられることの多いコンスタンティオスだが、後の研究では都市の再開発や道路網の整備、教育の振興など、行政面での功績が明らかになりつつある。
特に、ポントス王国の首都であるトラペズスの現代まで残る区画を整備し、後の発展の礎を築いたのはコンスタンティオスだとされている。

世界図

900年時点での世界図。

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Last-modified: 2017-06-25 (日) 13:30:58 (147d)