葡萄の枝

ウード三世

二つの聖戦

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 七代目ブルゴーニュ公ウード三世

 ウード三世は、嘆息する暇もなく領内を巡検し、廷臣の動向に目を光らせた。これを以てディジョンに暫しの寧順が齎された。
 よく勤め、よく食べることが彼の行動の源泉であった。牛肉の塊を平らげ、シトー修道院仕込みのワインを煽る有様は、貴婦人からすると眉を顰める所業であった。妻イサベル――ブロワ伯ティボー五世の娘で、父が身罷った後に娶った――も例に漏れず、食が細いだけに尚更のことであった。自重するようにしばしば諫めていたが、夫は意に介しなかった。

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 ウード三世の妻イサベル

 1192年10月、バレアレス諸島のマヨルカ総督ヤヒーラに対し、仏王フィリップ二世が聖戦を仕掛けた。その一方、教皇ケレスティヌス三世は、イェルサレム奪還の為の十字軍を呼びかけた。
 ウード三世は、そのいずれにも与しなかった。
 内陸の一公爵では、傭兵の力を借りずして小島へ派兵することができない。イェルサレムは信奉せるカトリックの聖地といえども、ボスポラス海峡を越えた遙遠の地。布衣の巡礼者ならいざしらず、軍隊を差し向けるとなれば幾年分の資儲を要する。
 父ユーグ四世は、いわゆる第三回十字軍に参戦し、イングランド王リチャード一世とともに勇名を振わした。ディジョンの城塞町を拡張して内治に努めたこともあった。嗣子は、父が手にした十字軍士の名声には懐疑的で、遠征せずに内政を注力することに重きを置いたのであった。
 しかしながら、従兄にして元帥のギョームは、十字軍の出征を拱手傍観することを本意としていなかった。1196年、熟慮の末に軍勢を率い、公の許を離れていった。

 あるとき、ウード三世は食案に上った孔雀肉の塊を虚ろな目で眺めていた。さすがのイサベルも不審に思った。
「らしくないわね。あなたの好きな孔雀ではないですか」
「肉は要らぬ。パンと水だけでいい……」
 ウード三世はか細く呟いた。勇猛な従兄が去っていったことで喪失を感じるようになったのか、或いは妻の平生からの説諭に悟る所があったのか。
 爾後、彼の象徴でもあった鯨飲大食の姿は消え失せた。

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 為政者としては少食の方が望ましい

 同年3月、フィリップ二世はバレアレス諸島を平定した。十字軍はというと、アイユーブ朝の激しい抵抗を防ぐこと難く、同年12月に新教皇ルキウス四世――ケレスティヌス三世は1193年に92歳で老衰死した――の命によって聖地から撤せざるを得なくなった。

魂の承継

 カペー朝フランス王国では、王位は伝統的に長子が継承するものとなっていた。パリの東を治めるシャンパーニュ公アンリ二世は、長子ひとりに相続が集中することを快く思わず、分割相続を求めて決起した。1199年のことである。アンリ二世はブロワ家の者で、イサベルの従兄にあたる。のみならず、第三回十字軍に参加してユーグ四世と陣を共にしたこともあった。

 折しも、イサベルはユーグ四世との間に新たな命を宿らせていた。ブルゴーニュ家とブロワ家の縁がますます深くなることもありえたが、ユーグ四世は反乱に同調することを肯んじなかった。フィリップ二世はもとより、王太子たるルイ八世も強健にしてよく人と交わる闊達の士であり、王国が纏まろうとするところを崩す気は秋毫もなかった。

 翌年3月6日、イサベルの胎内より男児が生を受け、ユーグと名付けられた。時を同じくして、母となったばかりのイサベルは産褥の痛みを以て天に昇っていった。
 ウード三世はさらに憔悴した。だが、三十代にして鰥(やもお)であることは他に示しがつかぬと思い、新たに妻を迎えることとした。相手は、ボヘミア公プシェミスル――すなわちオタカル一世――の姪リュドミラに決めた。

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 再婚相手のリュドミラ。前妻同様、節制に長けている

 1203年、相続を巡る内乱は白紙に戻された。
 その翌年、ウード三世はフィリップ二世によって司令官に任ぜられ、ルーアンを攻撃することとなった。ここはフランスの慣習的な領地であり、今はイングランド王リチャード一世が支配していた。膂力衆に過ぐるこの獅子心王との争いは五年続き、1209年9月を以てルーアンはフランスの手に帰した。
 このとき、パリの玉座の主に異変が生じていたことを知る者は、僅かの近臣のみであった。

早すぎる交代

 ルーアン遠征から帰還したウード三世に、ヌヴェール伯アグネスの噂が舞い込んできた。ディジョンの西隣、ヌヴェールとオセールを治めるアグネスが、ブルゴーニュ公位をわがものにしようと目論んでいるようであった。ウード三世は、オセールがブルゴーニュ公の慣習的な領地であることを主張し、アグネスに宣戦した。
 緒戦で形勢が定まると踏んだウード三世は、カタルーニャ傭兵団を雇ってヌヴェール伯軍と対峙、これを撃退した。その後は独力で城を囲み、オセール以下の諸地区を占拠した。

 1210年12月、ヌヴェールに陣取るウード三世の許へ使者が遣わされた。使者は、フランス王ルイの名代と称した。
 ウード三世は、己が耳を訝って使者に問うた。
「フィリップ陛下はいかがされたのか」
 使者は鉄面を崩さず淡々と語った。
「フィリップ陛下はリチャードとの戦で左足を失われてお体を崩され、秋気深き折にお隠れとなりました」
 英明なるフィリップ二世が不具となり、中道にして斃れた。ルーアンを巡る戦いでまったく気付かなかったことに、ウード三世は悔恨これより至る有様であった。
 構わず、使者は言葉を続ける。
「さて、壮健なるルイ陛下は、公や伯との諍いに御頭を痛めておられる。かかる争いは益なきがゆえ、王国法を改める手筈を整えている。貴公にもご協力いただきたい」
 ウード三世は、新王ルイ八世が居丈高な、それも父王とは違うと誇示するような君であることを、使者を通じて看取した。
 何かと口実を設けて使者を送り返した後、ウード三世はヌヴェールの包囲を続けた。1213年2月、オセールはブルゴーニュ公領として認められ、ヌヴェール伯アグネスとの間に10年間の停戦協定が結ばれた。

 1220年、ウード三世は嫡子ユーグをクニグンデと婚約させることにした。彼女は神聖ローマ皇帝の陪臣ラウジッツ伯コンラッドの娘で、才媛の誉れが高かった。

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 公太子ユーグの婚約相手クニグンデ。天才少女

 1222年4月、イェルサレム女王イサベルが亡くなり、アモーリー二世が後を継いだ。彼は前シャンパーニュ公アンリ二世――1214年12月に病死していた――とイェルサレム女王の間に生まれた子で、父の死後シャンパーニュ公となっていた。ここにおいて、アモーリー二世はイェルサレム王兼シャンパーニュ公となり、ランス、サンス、トロワの三州はイェルサレム王国の帰属するところとなった。

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 ディジョンの北がイェルサレム王領に変わった

 1223年3月、ウード三世は再びヌヴェール伯と干戈を交えた。戦費を惜しんで傭兵の助力を借りず、三年かけてヌヴェールを掌中に収めることとなった。
 ディジョンに帰還したウード三世は身体の衰えを感じながらも執政を続けたが、6月16日を以て祖霊の誘いに屈した。享年60であった。
 彼は不正や虚偽を忌み続けた。公正な世の中を作るために尽力し、「公正公」と呼ばれた。
 また、壮年よりアウグスティヌスの『告白』を座右の書とし、敬虔なるクリスチャンとしても知られた。
 彼には子供が二人いた。長子ユーグは父の嗣子となってブルゴーニュ公を継ぎ、リュドミラとの間に生まれた次子フレデリクは兄によってヌヴェール伯に封ぜられた。

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 ウード三世の崩御


次:ユーグ五世


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Last-modified: 2018-05-23 (水) 22:01:01 (201d)