AAR/葡萄の枝

ウード四世

貴腐の枝

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 九代目ブルゴーニュ公ウード四世。21歳当時

 ウード四世は、父ユーグ五世、母カチトとの間に、1235年10月28日を以て生まれた。
 警抜にして詐謀を好み、しばしば廷臣を困らせていた。その一方で、生まれつき体が弱かった。ところが、長じるにつれて食に対する欲が肥大化し、病とは縁の遠き青年に変わった。
 1255年12月21日、ブルゴーニュ公を継いだ。

 1258年4月、フランス王フィリップ三世が馬上槍試合を開催した。
「これは、フランスで一番強い男を決める戦いだ。すなわち、参加しない者は怯懦であると公言するに等しい」
 挑発的な勅令が下された。ウード四世は、武芸にさしたる自信なく、何とか理由をつけて断るつもりでいた。とはいえ、王からこのような宣言を受けて拒絶することで、公爵として面子が立たなくなる危険性の方が高い、と彼は嗅ぎ付けた。渋面を表に出さぬよう、パリの王城へと向かうことにした。
 結果は望むべくもなかった。だが、前夜の酒宴、闘技における生きるか死ぬかのぶつかり合いは、彼の精神に熱苦しい魔を萌芽させることとなった。後夜の饗応で、ウード四世の大食漢ぶりに魅せられた男たちが寄ってたかってきたことにより、拍車がかかった。


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 男色に目覚めてしまった

 それは、一切の女気を寄せ付けないことと同義ではなかった。同年11月、ウード四世はアンジュー伯エドワードの娘イザボーと結婚した。姉ベアトリスと同じく、イングランド王国と結びついたことになる。


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 ウード四世の妻イザボー。気まぐれだが忍耐強い

 1262年、直轄の兵を増やすべく、ディジョンの領内にヴェズレー城を建てた。
 1263年8月、教皇ハドリアヌス五世がイタリアへの十字軍を呼びかけた。カタリ派を信奉する神聖ローマ帝国に対する膺懲である。ウード四世もこれに応じ、アペニン山脈の西とリグリア海の間を縫うように行軍した。ウード四世がピエモンテに辿り着いた時には、大勢既に定まっていた。
 1265年2月、教皇の名のもとにカトリック側の勝利が叫ばれ、ローマより北のイタリア半島は戦功最も著しかったヴェネツィア共和国の支配するところとなった。

千載不決の議

 1264年5月、フィリップ三世が突如として薨去し、その長子エラール一世が新しいフランス王となった。

 1267年10月、ウード四世はサントンジュ伯ゴドフリーに宣戦布告した。いつの頃からか、ゴドフリーは上に公や王を戴くことを止め、伯国の主としてサントンジュに拠っていた。
 ゴドフリーは、姻戚関係であるピサ王バルトロメオ三世を援軍に呼んだ。バルトロメオ三世はピサ王を名乗ってこそいるものの、故地は神聖ローマ帝国、次いでヴェネツィアの所領に変わり、このときにはコルシカ・サルデーニャ両島の一隅を保つに過ぎなかった。
 1268年、エラール一世が不慮の事故により薨じ、その長子フィリップ四世が後を継いだ。新王は齢僅かに7。二代にわたる突然死の原因は審らかにされていないが、主君が次々と変わる、それも幼少の君とあっては、国内の動揺も宜なることである。
 1269年1月、ウード四世はゴドフリーに勝利し、サントンジュ伯位を我が物とした。

 1272年11月、二頭の黄金獅子がディジョンに迫っている、との報を受けた。ノルマンディー公ローレンスの軍勢である。ローレンスは、ヴェクサンがノルマンディーの慣習的な領地であると主張してフランス王に宣戦していた。
 ウード四世は、常備軍および近隣伯の軍勢を以てディジョン伯領内のセミュールにてこれを邀撃、敵将ウー伯ゴドフリーを捕縛した。

 1273年5月26日、ウード四世は妻イザボーとの間に男児を授かり、エティエンヌと名付けた。次いで、1275年1月26日には女児が産まれ、エシーヴと名付けた。


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 同性を好んでいても、子供は別問題

 この頃、王国法が改正され、国内での私戦が禁じられるようになった。国内にとどまってブルゴーニュの威を高めることが難しくなった。
 ウード四世は、宰相フィリップをしてブルターニュ王領レンヌに赴かしめた。ブルターニュ王国が、ウード四世の次なる標的であった。
 1276年12月、フィリップはブルターニュ公の正当な支配権がブルゴーニュ家にある旨の古文書を探し当て、ウード四世に渡した。ここにおいて、ウード四世はブルターニュ王ガイに対し、会猟を申し込んだ。やや遅れて、フランス王フィリップ四世もガイを破門するとの理由で宣戦布告した。
 フランス王軍も加わり、ブルターニュ軍に連勝したウード四世は二年かからずガイに匙を投げさせ、1278年11月を以てブルターニュ公位を奪い取った。
 ブルターニュはカルナックに群れ成す巨石に代表されるように歴史深く、風光明媚な土地である。内陸の奥深いディジョンで長く過ごしたウード四世にとって、果てなき蒼海に鋭敏なる海岸線が広がる景色は異世界であった。息づく文化や空気もブルゴーニュとは隔絶されたものに感じられた。
 ――呑み込みの速いわが子に、違和感なくうまいことやってもらおう。
 一方的な親の思惑で、実地の帝王学とばかりに、ウード四世は長子エティエンヌをブルターニュ公兼レンヌ伯に封じた。

大胆不遜の嫡子

 1279年3月、アルマンサの平民ヒラルがフィリップ四世に対して暴動を起こした。ウード四世のあずかり知らぬところで、イベリア半島の東部がフランス王国領となっていた。
 フィリップ四世は大いに怒り、自ら南征した。陣頭に立ちすぎたのが災いし、1281年3月、20歳の若さでフィリップ四世はイベリアの露と消えた。後を継いだのは、4歳下の同母弟エヴラール一世であった。彼は親征しなかったが、現地の兵を以て翌年3月に暴動が鎮圧された。
 1283年、宰相フィリップが要求権を再び捏ね上げた。ウード四世はそれを受け入れ、ブルターニュ王領トゥアールを我が物にせんと欲した。
 ブルターニュ軍は宣戦されるや故地へ兵を進め、半島最西端のレオンまで至った。ブルターニュの民はウード四世にまだ懐いておらず、現地からの募兵はままならなかった。かくしてブルゴーニュ劣勢で戦況が流れていったが、ディジョンやシャロンなど内陸諸領からの軍勢が到達することでようやく逆転、1287年2月を以てトゥアールはブルゴーニュ公領として認められた。ブルターニュ王ガイは大陸における領土を失い、ブリテン島のサマセットに難を逃れた。

 1289年1月、妻イザボーが鬱の為に亡くなった。
 1289年9月、ブルターニュ公からの使者がディジョンに遣わされた。わが子エティエンヌと久闊を叙したいところであったが、その思いは須臾にして吹き飛ばされた。
 ――フランス王太子トーマスは、他日わがブルゴーニュ家に禍を齎すものと思われます。彼の者を剪除すべく、父上にもご助力頂きたく存じ上げます。


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 誰の影響によるものか

 トーマスはエヴラール一世の長子で、このときまだ5歳の幼児であった。
 成人したばかりの公太子が大胆極まりない謀を企てていることに、父は驚きを隠せなかった。しかしながら、何を考えているかわからないと後ろ指をさされることもあるウード四世のこととて、少し冷静になって意図するところを想像してみた。
 フランス王国では、長子相続の法が受け継がれている。前王は長子であったが、夭折して子がなく、弟に王位が引き継がれることとなった。現王にはいま三人の子がいる。ここで長子がいなくなれば二代にわたって法の総則が破られ、王家たるカペーはますます綻ぶのではないか。それを繕うには、ブルゴーニュ家をおいてほかにない云々。

 エヴラール一世は敵を多く作る君であった。アンジュー公ロジャー、プロヴァンス公アルフォンス三世、ナバーラ公ヒメーナ二世、スウェーデンからの冒険者ラグンヴァルドなど、攻守合わせて七つの勢力を敵に回していた。ウード四世もディジョンの鐘の音を聴く暇なく、常在戦場であった。


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 16歳当時のフランス国王エヴラール一世

 1300年2月、ウード四世は病に倒れた。7月には回復したが、盛時の精は耗弱し、教皇ケレスティヌス五世がドイツへの十字軍を発動しても看過する有様であった。
 1301年3月25日、ウード四世は薨去した。享年65。聡明利発であり、賢公と呼ばれた。

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 ウード四世の崩御


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 ウード四世崩御時点のフランス周辺地図


前:ユーグ五世
次:エティエンヌ一世


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Last-modified: 2018-05-29 (火) 00:23:20 (196d)