AAR/葡萄の枝

エティエンヌ一世

黒死病の蔓延

etienne1_16.jpg

 十代目ブルゴーニュ公エティエンヌ一世。16歳当時

 エティエンヌ一世は、父ウード四世、母イザボーとの間に、1273年3月26日を以て生まれた。
 五歳にしてレンヌ伯兼ブルターニュ公となった彼は、親の監護を離れて放縦の少年期を過ごした。感情の抑制が不得手でしばしば衝動的になったが、取り組むことには厭かざる勤勉さを備えていた。草木を愛し、自ら種々の植物を育てた。
 父ウード四世のあずかり知らぬところで、太子エティエンヌはフォワ伯アルフォンスの娘イデと婚約していた。彼女は公正にして慈善に富み、節制を好む性質であった。


ide_de_foix_14.jpg

 婚約相手のイデ(14歳当時)。勝手に契りを結んだことはさておき、太子の見る目に間違いはない

 他方、太子エティエンヌはひそかにアレアルデなる平民の愛人を作っていた。イデが同性への愛情に傾倒するようになったことと時を同じくしており、愛欲を満たすためではないかとも噂された。
 1301年3月、エティエンヌ一世は公位を継ぐや否や、父が見送っていたドイツへの十字軍に参戦した。カトリック諸侯がやや優勢の状態にあり、出遅れの感はあるが、功名心を満たす気持ちが勝った。
 6月、フランス王国内で黒死病が流行しはじめた。前年冬、バルカン半島のエピロスに端を発した恐るべき癘疫は、一年のうちに北はルーシを襲い、東はレバントに接し、南はヌビアに至り、西はマグリブに及び、猛威を振るった。ブルゴーニュ公領においても、宰相サンテュールをはじめ、長幼を問わず命を奪われた者が相次いで現れた。
 1302年2月、妹エシーヴが27歳で夭疾した。ただし、彼女については肺炎が死因であった。
 9月12日、ドイツ十字軍はカトリックの勝利で幕を閉じ、功績著しいイングランドがドイツ王国の慣習的領土を手にした。その翌日、エティエンヌ一世は高熱に侵された。
 12月6日、病を押してようよう帰国したエティエンヌ一世のもとに、妻イデが出産したとの吉報が齎された。その男児は、ニコラスと名付けられた。
 しばらくして、エティエンヌ一世は脳を蝕む熱から解放された。しかしながら、今度は別の熱を宿らせた。病床にて閑暇を埋めるべく、詩集や書簡の類を読み耽っているうちに、自ら詩作することにも嵌るようになった。
 ――儂が作った詩は、道行く吟遊詩人たちの間にも広がっているのだ。
 彼はそう嘯いていた。


etienne1_poet.jpg

 エティエンヌ一世は詩人公爵となった


漏洩と決起

 1304年3月、コルヌアイユ伯シルホイアーンがブルゴーニュ公位を窺っていることを察知したエティエンヌ一世は、伯の頭を冷やさせるべく牢獄へ投じようとした。この試みは失敗し、シルホイアーンは反旗を翻した。エティエンヌ一世は兵を即刻招集し、コルヌアイユに親征した。
 同年8月24日、アレアルデが男児を産んだということを、エティエンヌ一世は陣中にて知らされた。彼は正妻よりも愛人により多くの愛情を向けていたとはいえ、嫡庶の別を弁えぬことはしなかった。ジャンと名付けられた第二子は、ブルゴーニュ家としては庶子として遇された。
 同年10月、エティエンヌ一世の陣中にふたたび早馬が飛んできた。又従弟ヌヴェール伯アルフォンスが、フランス王太子トーマスの暗殺計画を暴露したという。アルフォンスも、トーマス暗殺に名を連ねていた一人であった。


13041023.jpg

 危険な又従弟。もっとも、エティエンヌ一世も危ない橋を渡っているが

 身内の裏切りにエティエンヌ一世は激高した。
「閣下、落ち着きなさいませ。まずはコルヌアイユ伯との決着をつけましょう」
 従軍していた騎兵長官アンゲランが、主を宥めた。公は、長官の諫言を是としてコルヌアイユの包囲を続けた。
 1305年1月、エティエンヌ一世はシルホイアーンを捕らえた。次いで伯位も剥奪し、コルヌアイユ伯はエティエンヌ一世が兼ねることとなった。
 ディジョンに戻ったエティエンヌ一世は、密告者を投獄することの是非を廷臣たちに諮った。
「己の保身に走り、身内を売るのは卑劣な所業。すぐにでも投獄すべきです」
「アルフォンス殿は、当地では慈善の伯爵として知られております。実力行使に出れば、エティエンヌ閣下の名誉に傷がつきかねません」
「いま、アルフォンス殿に対して罰を加えれば、あらぬ誤解を招くこととなるでしょう」
 投獄は控えるべきという主張が大勢を占めた。エティエンヌ一世は大勢に従うことにした。ただし、アルフォンスの隙を窺うことは止めなかった。
 1305年11月、フランス王エヴラール一世からの使者がディジョンに来訪した。遂に王子暗殺に対する懲罰がきたかと思ったが、さにあらず。宰相に任命するとの勅命であった。
 エティエンヌ一世は謹んで命を受けた。一年も経たぬうちに、理由が明かされぬままに宰相の任は解かれた。王の面前から退いた後、彼は脱いでいたマントルを叩きつけた。
 エティエンヌ一世はディジョンに戻ってから評定を開いた。廷臣イダが、彼を慫慂した。
「閣下は、ガリアを纏めんと欲して精力的に奔走されています。人々から、嫉妬交じりの敬意が閣下に注がれているのが私にはわかります。そこには、王も含まれています。王には閣下を扱うことができないのでしょう。閣下は嚢中の錐、隠していてもそのうち自然と現れてしまいます」
 公の口角が上がった。


ida_admires.jpg

 野心家を焚きつける

「要するに、儂がフランス王になるべき、というわけだな」
 イダは頷いた。
「軍資が十分に整えられれば、それも面白い」
 そこに、家令アモーリーが割って入った。
「閣下、軍資は私が用意いたします」
 エティエンヌ一世は、アモーリーに徴税を任せた。家令の辣腕を以て、十分の一税が公庫に齎された。
 1307年7月、エティエンヌ一世は自らが新しいフランス王となるべく、エヴラール一世に反する旗幟を明らかにした。フランス王の軍勢はイベリアや黒海方面に向いており、本国は手薄であった。エティエンヌ一世は王都パリを難なく占領した。
 1310年10月、エティエンヌ一世はエヴラール一世を屈服させ、フランス王位を襲った。一度は地下牢中の人となったエヴラール一世であるが、翌11月には解放され、パリをはじめとした所領は安堵された。


13101007.jpg

 割とあっけない王位簒奪


因果応報か

 フランス王位を承継したエティエンヌ一世は、エヴラール一世時代からの戦争も引き継ぐこととなった。相手は下ロレーヌ公ユーグ二世。神聖ローマ帝国の臣として、カタリ派を広めるべくヴァロワに攻め込んでいた。既にして戦況はフランス軍優位に傾いており、1312年1月にユーグ二世は撤兵した。
 外患の赤獅子を退治した後で、エティエンヌ一世は内より蝕むガヌロン、すなわちヌヴェール伯アルフォンスを衰弱せしめんと欲した。牢獄に投じるところまでは成功したものの、アルフォンスがフランスの廷内では堕罪の徒であるとみなされていなかったことは、エティエンヌ一世にとっての不幸であった。ヌヴェール伯位の剥奪は見送られた。
 8月、エティエンヌ一世は神聖ローマ皇帝ヘルマンに聖戦を宣告した。狙いは、プロヴァンスの大地と富であった。まばゆき陽光を求め、彼は果敢に馬を乗り回して異端者を怯懦にせしめた。
 しかし、エヴラール一世に対しての行動が、別の形で跳ね返ることとなる。
 1313年12月、イングランド王に仕えるミース公レジナルドから宣戦を受けた。レジナルドは、アミアンが我が領地であると主張し、譲らなかった。エティエンヌ一世は豊かなプロヴァンスから手を引いて異端者に背を向けるに忍びず、しばらくは北を静観した。そのうち、敵勢は続々と蝟集して一万余りに及んだ。北へ転戦したとしても、傭兵の助力なくしては優勢たりえない。
 1316年9月、エティエンヌ一世はレジナルドにアミアンを明け渡した。


13160915.jpg

 プロヴァンスに気を取られすぎた

 1320年7月、悪魔憑きの廷臣ギルドゥワンが、エティエンヌ一世に禍々しい謀を吹きかけた。イデを亡き者にすることである。
 王は、悪魔に憑依されかかった。若くして同性愛に目覚めた正妻は、カトリックの徒からは白眼視されていた。かてて加えて、近頃になりて天然痘を患い、痘痕が夥しく露見するようになった。その姿が、ギルドゥワンにいわせれば悪魔であるという。
 王の内に秘めた、奥底を塞いでいる鈍い光を放つ水晶が、悪魔から守った。カペー=ブルゴーニュ家直系は汚し腐してはならないという、不遜にして畏怖の籠った名誉心であった。
 だが、深い闇はなおも消えることなく、エティエンヌ一世の肉から蝕んでいった。エティエンヌ一世はプロヴァンス征服軍を老元帥アンジェルバートに任せ、ディジョンに退いた。
 11月、捷報がディジョンの玉座に齎され、プロヴァンス公の所領はエティエンヌ一世の掌中に委ねられた。しかし、エティエンヌ一世は頭を働かせるのが怠くなり、統治するに足るであろう廷臣や伯へ適当に所領を与えていった。
 1322年1月、プロヴァンスにてカタリ派のダヴィが蜂起した。次いで2月、冒険者コプティがアゾフの征服を宣言した。エティエンヌ一世は征討の兵を挙げようとしなかった。否、挙げることができなかった。彼は自らが何者であり、何処にいるかが識別できなくなってしまった。


13220205.jpg

 もう疲れた……


 かくして、エティエンヌ一世の代理として長子ニコラスが摂政となった。ニコラスは速やかに叛逆せる異端を平らげた。しかし、何処の馬の骨かわからぬ冒険者には兵を出さなかった。アゾフは前王エヴラール一世か、あるいはそれよりも遡るかは判然しないが、いつしかフランス王国領となっていた。コンスタンティノープルよりも東にある辺境伯領には、摂政の目が届く所ではなかった。摂政は、冒険者の統治を許すことにした。
 1323年10月20日、エティエンヌ一世は昏睡状態で崩じた。享年50。彼は正妻との間に二人の子、ニコラスとボードゥアンを、愛人との間に三人の子、ジャンとアデリンデとアンゲランをそれぞれ儲けていた。

13231020.jpg

 エティエンヌ一世の崩御


13231020_map1.jpg

 エティエンヌ一世崩御時点のフランス周辺地図


13231020_map2.jpg

 エティエンヌ一世崩御時点のイベリア半島周辺地図


13231020_map3.jpg

 エティエンヌ一世崩御時点の東欧周辺地図


前:ウード四世
次:ニコラス一世


添付ファイル: file13231020.jpg 54件 [詳細] file13231020_map3.jpg 49件 [詳細] file13231020_map2.jpg 42件 [詳細] file13231020_map1.jpg 45件 [詳細] file13220205.jpg 34件 [詳細] file13160915.jpg 35件 [詳細] file13101007.jpg 59件 [詳細] fileida_admires.jpg 38件 [詳細] file13041023.jpg 46件 [詳細] fileetienne1_poet.jpg 39件 [詳細] fileide_de_foix_14.jpg 36件 [詳細] fileetienne1_16.jpg 37件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2018-06-01 (金) 23:45:20 (192d)