AAR/葡萄の枝

ニコラス一世

治世の能君

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 ブルゴーニュ家二代目フランス王ニコラス一世。16歳当時

 ニコラス一世は、父エティエンヌ一世、母イデとの間に、1302年12月6日を以て生まれた。
 彼は幼少より人懐こく、城中の皆から鍾愛されていた。何事をか成さんとする情熱や覇気が薄く、エティエンヌ一世にとっては文字通りに不肖であった。王太子たるもの野心の一つは持たねばならぬ、と父はしばしば窘めた。ニコラス一世はその場では聞き容れるものの、時が経っては翻し、足るを知る者となっていた。
 1319年3月、ニコラス一世は父の命によりアミスと婚約した。彼女はイングランドに臣従するブルターニュ王ヘンリーの孫娘で、長じるにつれて慈善、勤勉、忍耐、親切という美徳を次々と身に着けた。


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 婚約相手のアミス(14歳当時)。妃の鑑

 1322年2月、政治を執れなくなった父に代わって摂政となり、翌年10月にフランス王位を継いだ。政を通じ、彼は父から投げかけられた訓示をふと思い出した。世には実に偏頗が多い。これは、自らにも当てはまる。まずは、率先してわが身を正し、私事を排除することから始めなければならない。公正であることに対して、ニコラス一世は初めて情熱を傾けることとなった。
 1324年3月、神聖ローマ皇帝ヘルマンから書簡が届いた。彼は懇篤で名高きニコラス一世を、腐骨の背教者と痛罵した。
 神聖ローマ皇帝軍がプロヴァンスに侵攻するに及び、カトリック勢から援軍が相次いだ。カスティーリャ王マルティノ、クマン可汗プラド、アラゴン王ゴンバウ、ヴェネツィア統領ロタリオが、フランスの救援に駆け付けた。
 1326年8月を以て、異端の軍勢はプロヴァンスから撤収した。プロヴァンスの民も、宮廷司祭ジョフロワの尽力でカトリックに改宗した。
 日を置かずして、密偵頭エヴラールがニコラス一世に忠告した。いわく、わが君を亡き者にせんとする闇を感じるゆえに用心召されよ、と。
 その源泉が何処にあるのか、ニコラス一世は密偵頭に探らせた。行き着く所は、フォルカルキエ伯ウードであった。彼の母はアレアルデで、エティエンヌ一世のあの愛人である。ただし、父は何者であるか明かされていない。もし、前王の隠し子であるとすれば、ニコラス一世にとっては異母弟にあたる。


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 私生児ウード。仇敵関係でもあった

 この疑わしき者が伯であることに危機感を覚え、ニコラス一世は投獄を試みた。しかし、捕縛使はウードに殺された。ここにおいて、ニコラス一世は直属の兵を従えてフォルカルキエに進軍、9か月の後に鎮圧した。ニコラス一世はウードを獄に投じ、フォルカルキエ伯位を剥奪した。

心中の空隙

 1328年1月、ニコラス一世はサルデーニャ兼コルシカ王ベンヴェヌートに宣戦した。コルシカ島の南西部、シナルカには港があり、北アフリカやシチリア島などへの中継地点となりえた。ニコラス一世は港から齎される収益に着目し、独力でも神聖ローマ帝国に伍するだけの国力を蓄えようとしていた。
 ベンヴェヌートはカトリックであり、コルシカ島にも慣習的な領有権はない。宰相ブシャールが領有権を拵えることで、ようやく成しえたことであった。


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 サルデーニャ兼コルシカ王ベンヴェヌート。王の器にあらず

 1328年7月、フランス王の命を狙わんとする輩が蠢いている、との蜚語がニコラス一世を脅かした。ウードの残党か、その他の不逞なる徒かは定かならず、輾転反側する日々を送ることになった。こうして、彼は心労を患った。
 1329年6月、ニコラス一世はベンヴェヌートにシナルカ割譲を認めさせた。
 1331年2月、ヌヴェール伯アルフォンスがブルゴーニュ公位を窺っているという噂がディジョンに齎された。
 アルフォンスは、ウード三世の次子フレデリクから数えて曾孫にあたる傍系の者である。これだけでは特別ではないお家騒動ではあったが、アルフォンスは姦計で人を殺めている。フランス王国の秩序を乱す輩……ニコラス一世はそう見做し、アルフォンスを地下牢に封じ込めようとした。しかし、先のウードと同じく捕縛使が亡き者となった。ニコラス一世は自ら兵を率いてヌヴェールに迫り、翌年11月にアルフォンスの軍を屈服させてその将を投獄、ヌヴェール伯位を剥奪した。

 1332年3月、ニコラス一世は父が育てていた薔薇を束にして某臣に送り付けた。しばしば従僕を遣わして金品をせびってくる某臣を宥めようとしたのである。金で解決するのは一時凌ぎに過ぎない上、増長される恐れがあった。精神的に改めないと繰り返される、とニコラス一世は考えた。
 後日、某臣から書簡が届いた。その文面には芳香こそ漂うも、銅臭は微塵も感じられなかったという。


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 対人問題は尽きない

 1340年9月、神聖ローマ皇帝ハインリヒ七世が聖戦と称してヴェネツィア統領トマソに宣戦した。嘗てプロヴァンスの危機を救ったヴェネツィア統領ロタリオは既に昇天しているが、その恩義はまだ返せていないとばかりに、ニコラス一世は加勢して異端者に抗った。
 しかしながら、敵軍は万余の軍勢でアルプスを迂回してロンバルディアに侵攻してきた。1344年5月、フランス・ヴェネツィアの連合軍はパヴィーア郊外のヴォゲーラで邀撃するも、その半ばが戦場の露と消えた。同年10月に、この聖戦は白紙和平で幕が閉じられた。
 敗戦を受け、ニコラス一世は常備軍を増強するほか、王国内の諸侯に施して人心の収攬を図った。

連携する帝国

 1345年4月、ニコラス一世は病に倒れた。軽く熱を帯びた感じになるも、翌月には快癒した。
 同年8月、神聖ローマ帝国領の上ブルゴーニュへ聖戦を始めた。
 その翌月、バルドゥインなる者がヴァンヌにてブルターニュの独立を掲げて決起した。ただの民衆反乱ではない。バルドゥインに従う兵は14000人に及び、ブルターニュに燻る民を焚きつけるかのようであった。


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 手強い反乱軍の頭領。ブルターニュへの統治がまだ根付いていなかったか

 ニコラス一世は聖戦の布告を取り下げることなく、全軍を西に進めた。翌年4月、ヴァンヌにて反乱軍を撃破した。一個人では梟雄たるバルドゥインであったが、後ろ盾がないことでひとたびの敗戦が命取りとなった。
 バルドゥインを地下牢に閉じ込めた後で、ニコラス一世はふたたび上ブルゴーニュを目指した。上ブルゴーニュの所領ブザンソン、ヴズール、ベルフォールを陥落させるが、神聖ローマ帝国の強力な後ろ盾が東から迫っていた。ビザンツ皇帝キュロスである。ブルターニュ反乱軍に倍する三万の兵が、フランス王国軍が包囲するモンベリアルに襲い掛かった。衆寡敵せず、フランス王国軍は西へ逃れた。
 一気に大勢が崩れることを憂慮し、ニコラス一世はやむなくハインリヒ七世へ白紙和平を申し出た。1348年2月、休戦協定が結ばれた。


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 26000の兵力は脅威

 1349年6月、ニコラス一世はふたたび床に臥した。こたびは日に篤くなり、9月14日を以て病魔に屈した。享年46であった。妻アミスとの間に長女アグネス、長男ティエリー、次男ベルナール、次女デニス、三男ガーガメルの五人を儲けた。
 ニコラス一世は摂政に就いたときから抱いた公正の志を終始忘れずに力行し、公正王と綽名された。
 また、カトリックへの改宗にも熱心に取り組み、神聖ローマ帝国の旧領からイベリア半島まで、ローマ教皇が正当とする教えを浸透させた。
 なお、彼の代を以てイベリア半島からイスラーム勢力は駆逐されたが、このレコンキスタはバレンシア公らイベリアのカトリック諸侯の専断によるものであった。

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 ニコラス一世の崩御


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 ニコラス一世崩御時点のフランス周辺地図


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 ニコラス一世崩御時点のイベリア半島周辺地図


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 ニコラス一世崩御時点の東欧周辺地図


前:エティエンヌ一世
次:ティエリー一世


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Last-modified: 2018-06-07 (木) 23:25:23 (135d)