AAR/葡萄の枝

ユーグ五世

葡萄の枝とならん

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 八代目ブルゴーニュ公ユーグ五世。16歳当時

 ユーグ五世は、父ウード三世、母イサベルとの間に、1200年3月6日を以て生まれた。
 幼い頃、彼は人見知りが激しかった。9歳になるまで、廷臣たちは主の嫡男の顔をよく知らなかった。
「汝はブルゴーニュを継ぐ者。ひとり城に籠っていては、いかに瑞々しい葡萄といえども腐敗をきたすぞ」
 父が幾度と諭したことで、嗣子はようやく人前に姿をみせ始めた。むしろ、己から積極的かつ穏便に交流を持ち、可愛がらない人がいないほどにまでなった。特に付き合いが深かったのがカトリックの聖職者であり、聖書を読むことにも余念がなかった。
 ――わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝です。人がわたしに繋がり、わたしもその人と繋がれば、その人は実を豊かに結びます。わたしから離れては、あなたがたは何もすることができません。
 彼はヨハネによる福音書の第15章を特に好み、教会そして信徒に私財を投じて深い結束作りに励んだ。

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 懐は薄くても魂は厚く

 1229年2月、イル・ド・フランスの農民フルクが蜂起した。フランス王の膝元から火の手が上がったことに呼応してか、神聖ローマ皇帝の臣であるシュヴァーベン公フリードリヒ七世がフランス王国に宣戦した。フリードリヒ七世の軍勢がブルゴーニュ公領たるリヨンを囲むと知るや、ユーグ五世はディジョン、フォレ、ブールジュなどの兵を集めて南下し、これを撃退した。
 ディジョンに戻ってから、ユーグ五世はクニグンデと久方ぶりに会おうとした。父の命により婚姻相手として選ばれた、天才少女がどうなっていたか気になった。
 だが、彼女は公子の頃に見初めた相手とは似ても似つかなくなっていた。己より優れた相手に対する嫉視の強さもさることながら、カタリ派へ傾倒していることが、婚約者を絶望させた。そもそも、彼女の主筋たる神聖ローマ皇帝レオポルト一世自身がカタリ派に転向しており、帝国領の信仰がほとんどカタリ派で占められた。

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 婚約相手のクニグンデ。異端者となっては結婚できない

 ユーグ五世は婚姻関係を破棄した。代わりに、彼はアイルランド人である、ティルコネール伯フラスバールタッハの娘カチトを妻に娶った。5歳年上で、明敏にして誠実な人柄であった。

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 妻として迎えたカチト。強欲に目を瞑れば器量よし

 1232年2月、ユーグ五世はブールジュ伯ギョームに宣戦した。ブールジュの聖堂がブルゴーニュ家に縁あることを示す系譜を突きつけたのである。
 二年の後に、ユーグ五世はブールジュの領有権獲得に成功した。しばらくして、フランス王ルイ八世もシュヴァーベン公との防衛戦争に勝ち、フルクの蜂起も鎮圧した。

黄袍あらず

 1239年、年が明けるや、ルイ八世はフランス王国内の諸侯を集めて酒宴を催した。ユーグ五世も参加し、香ばしい薫りの料理や見世物でもてなされた。その手厚さたるや、現実社会の冷たさがいっそう厳しく感じるくらいであった。
 7月、神聖ローマ皇帝レオポルト一世公正帝が、仏領フランダースに対して聖戦を仕掛けた。ルイ八世はユーグ五世を司令官に任じ、アルトワを攻めしめた。

 1240年2月、ルイ八世が薨去した。享年53。自然死であった。その長子フィリップ三世が後を継いだものの、彼は癇癪持ちで些細なことから物や人にあたる癖があった。フランダースが失陥するにおよび、ユーグ五世もまた憤怒の的とされた。ユーグ五世は、従容として耐え忍んでいた。

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 フランス王を継いだフィリップ三世。人の上に立つには危険

 かかるうちに、オルレアン公ゴーシェがユーグ五世をフランス王に据える派閥を結成した。トゥールーズ公レーモン七世やバレンシア公ベノワらもこれに同調した。ユーグ五世は、己を王位に担がんと欲する動きがあることこそ感じ取っていたものの、図に乗って自ら取って代わらんとする気までは醸成しなかった。

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 100%は超えている。諸侯による政変の兆しか

 1245年、ユーグ五世は娘ベアトリスをイングランド王アダム肥満王の子アーサーと婚約させ、同盟を結んだ。アーサーは次期イングランド王と目され、狂信的なクリスチャンであった。異端に立ち向かう盟友として相応しかった。
 1250年、ユーグ五世をフランス王に担ぐ派閥が霧消した。その理由は詳らかではない。この頃、イングランド王アダム肥満王が病死し、アーサーが後を継いだ。

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 イングランド王太子アーサー。ユーグ五世とは気が合う

同志とともに

 正統なる信仰を守りかつ広げる、と志を掲げていても、強大なる敵勢と正面切って戦うのは暴虎馮河の極みである。主君フィリップ三世は信心に乏しく、聖戦には興味を示さない。畢竟、ブルゴーニュ公としての軍事力を強めて有事に備えるのが王道であった。
 1252年8月、ユーグ五世はリュジニャンの領有権を主張し、リュジニャン伯シモンに宣戦した。リュジニャンはブルターニュ王ヒュー寛大王の支配下にあった。ユーグ五世は、娘婿のアーサーを援軍に呼び、ブルターニュ半島からの敵軍を押しとどめんと欲した。ユーグ五世の要望に応えたかのように、アーサーはブルターニュ半島でブルターニュ王軍を撃破した。その間にユーグ五世はリュジニャン城を囲み、これを落とした。
 1254年9月、ユーグ五世はリュジニャン伯位を簒奪した。その直後、ビゴット家のマシューがアイルランドのアルスター伯アンフドーンと結託してアーサーへ反旗を翻した。イングランド王は、ユーグ五世に援軍を要請した。早速借りを返すとばかりに、ユーグ五世はディジョンに引き返さず北へ兵を進め、ヴァンヌで敵軍を潰走させた。
 1255年6月、アルスター伯は矛を収めた。これで敵はマシューに絞れたが、翌年7月にユーグ五世は遠征続きで熱発を覚えた。イングランド王アーサーも昏睡状態に陥り、10月に31歳の若さで斃れた。
 娘婿の死は岳父を驚嘆せしめ、12月21日に後追いするかのごとく天へと旅立った。享年56。東より跋扈せる異端に同化せず信仰を固守し、証聖公と呼ばれた。


 ユーグ五世が妻カチトとの間に儲けた子は二人。姉のベアトリスと弟のウードである。いずれも虚弱体質であったが、父に先立つことはなかった。

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 ユーグ五世の崩御

前:ウード三世
次:ウード四世


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Last-modified: 2018-05-29 (火) 00:14:17 (145d)