[[AAR/デンマーク年代記]]

&ref(001成人.jpg,nolink);
1383年12月17日、皇帝ヴァルデマが成人された。
皇帝は詔し、成人祝いの宴を催された。

&ref(002シスマ修復.jpg,nolink);
 すでにアンティオキアとエルサレムは領有しているので、あとコンスタンティノポリスとアレクサンドリアを得ると合一できる

宴の最中、皇帝はこうのたまわれた。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 先代までの歴代の帝王の御業により、朕は今エルサレムとアンティオキアを治めている。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 主が朕に与えた使命とは異端と異教の手中にある聖地を回復し、教会の威光を輝かしめることではないだろうか。

この言葉に諸臣は皆賛同し、このように奏上した。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 臣ら帝国諸臣は、皇帝陛下の大御心の赴くままにどこにでも向かう覚悟があります。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); それがキリスト者の長年の願いである教会の合一であればなおさらです。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 陛下におかせられましては、是非大御業を達成なされて、その恩寵と威光をあまねく世界に届けてくださいませ。

皇帝は東ローマ皇帝の後裔たるゾンレトビト公国やテッサロニキ専制侯の子女を皇后に迎えようとしたが、
これらの諸侯は婚姻に応じなかった。
&ref(005結婚相手探し.jpg,nolink);

1384年3月9日、皇帝はテッサロニキ専制侯に勅された。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 全ノルドの守護者にしてローマ皇帝、エルサレムとアンティオキアの王ヴァルデマがテッサロニキ専制侯ヨハネスに申し渡す。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝は専制侯の身分であるが、コンスタンティノポリスを治めている。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); かの地は皇帝の治るべき土地であり、専制侯たる汝には荷が重いであろう。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 皇帝たる汝の代理人、ステファニアにコンスタンティノポリスを譲り渡すように。

テッサロニキ専制侯は皇帝の勅を拒み、兵を挙げた。
皇帝はデンマーク王イーレク7世を大将に任じ、3万5千の兵をもって専制侯を討った。

9月14日、ティリリェにて帝国軍は専制侯軍を会的した。
&ref(006コンス戦争.jpg,nolink);

11月28日、ティリリェの戦いで専制侯軍1万2千を破り、大勢は決した。
&ref(007コンス戦争2.jpg,nolink);

12月28日、皇帝は御自ら出征され、残敵を掃射されている中で戦術について考察された。
&ref(008コンス戦争3.jpg,nolink);

1385年1月30日、テッサロニキ専制侯は自らの不明を恥じ、コンスタンティノポリスを皇帝に譲った。

2月18日、皇帝は戦勝を祝い馬上槍試合を開かれた。


2月28日、ヴァルデマ再興王の四女ソフィーィが過食のため薨去した。36歳であった。
イリザベトはセッサロニキ専制侯世子アンドロニコスとの間に一女、彼の死後弟ディオゲネスとの間に一男を設けた。
秀明の聞こえが高く、一時は再興王も女系結婚で宮廷に残すつもりであったという。
その秀明さを買われテッサロニキ専制侯家においては密偵頭として活動した。
&ref(009ソフィーィ薨去.jpg,nolink);

6月19日、馬上槍試合の最中、皇帝はエデッサ伯爵ポウルの剣の才なきを見て、自ら指導された。
&ref(010父に似る.jpg,nolink);

8月9日、皇帝は食事の味に疑問を抱き、同行していたエデッサ伯爵パウルに調査を命じた。
&ref(011父に似る2.jpg,nolink);

9月6日、エデッサ伯爵が奏上した。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); 陛下の口にされたものが毒か、そうでないか、それを確かめるためにも金が必要です。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); どうか費用をそちら持ちにしていただけませんか。
&ref(012父に似る3.jpg,nolink);
皇帝は承諾された。

9月25日、エデッサ伯爵が調査の結果を奏上した。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); 陛下の口にされたものは、毒ではありませんでしたが、体には悪うございました。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); 料理人が自身に腕の無いことを隠すために、香辛料を用いて味を隠していたのでございます。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); 古記録を調べましたところ、先帝陛下もエストラント公時代に料理を毒と疑われたことがあったようです。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); その時はヴァルデマ再興王陛下の御執成しにより先帝陛下は救われました。
&ref(顔エデッサ伯.jpg,nolink); どうか先例にならい、陛下も救われますよう願います。
&ref(012父に似る4.jpg,nolink);
 親子二代で似たようなことをしている

1385年11月21日、宮廷女官マグダレーネがイリザベトを出生した。皇帝はイリザベトを自身の娘であると認知した。
&ref(013庶子.jpg,nolink);
 聡明であったが、身分の差から諸臣に反対され、皇后として立てられることは無かった。
&ref(014庶子2.jpg,nolink);
 秀麗である

11月29日、皇帝は巡礼の詔をし、摂政にデンマーク国王イーレクを任じ、カンタベリーへ行幸された。
&ref(015巡礼.jpg,nolink);

12月29日、皇帝はカンタベリーに到着された。
&ref(016巡礼2.jpg,nolink);

1月13日、皇帝は還幸された。

1386年3月10日、元帥デンマーク王イーレク7世は密偵頭オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世のデンマーク王冠内の所領を剥奪する旨を奏上した。
皇帝は大して関心を払わなかった。


1387年11月15日、皇帝はリューリク家のグレミスラヴァを皇后に立てた。
ノルドの家系で異教時代からの血統を伝える二つの氏の合一を果たすことで、全ノルドの保護者としての資質を高めるためであった。
&ref(017婚姻.jpg,nolink);
グレミスラヴァは一男五女を産み名を第一子がビアギタ、第二子をアスタ、第三子をカロリーネ、第四子をヒリーナ、第五子をグレーデという。

&ref(018ドゥブロヴニク戦争.jpg,nolink);
1388年2月7日、皇帝はアンティオキア伯シニザを召して、こうのたまわれた。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝は信義に厚く、その志も清い。汝こそドゥブロヴニク王位を継承するべきではないか。

皇帝は2万8千の兵力を挙げてドゥブロヴニクに兵を向けた。
&ref(019ドゥブロヴニク戦争2.jpg,nolink);
8月11日、コポリェ伯カルルがベラトにおいて敵兵7千を破った。
8月22日、敗走する敵兵を追い、カニナにて敗残兵2千を破った。
9月15日、ドゥレスで850の敵を破り、敵兵を殲滅し、シニザを王位に就けた。
&ref(020ドゥブロヴニク戦争3.jpg,nolink);

12月28日、エデッサ伯ポウルが卒去した。50歳であった。
皇帝の友人として交友が深く、玉体の危機を救った。
娘のヨハネが跡を継いだ。

1389年7月16日、神聖ローマ皇帝コンスタンティノス5世が崩御した。46歳であった。
嫡子ルートベルトが即位した。

1391年1月5日、皇帝はアレクサンドリアをサラセン人から奪還すべく詔を発した。

&ref(021アレクサンドリア十字軍.jpg,nolink);


''ダマスクの戦い''
3月28日、ダマスクにてサラセン人4500人を破った。


''ガラティエの戦い''
6月10日、ガラティエにおいて帝国軍1万8千とサラセン人1万3千が交戦した。
7月11日、ガラティエにおいてサラセン人を破った。
&ref(022アレクサンドリア十字軍2.jpg,nolink);

主の受肉より1391年と7月17日、第200代教皇ゲラシウス3世が崩御した。
前任の悪教皇から打って変わり、その敬虔にして慈しみあふれる心様から修道士教皇と讃えられた。
この教皇の在位中、カトリックの権威は異教、異端を大きく突き放しその威武を知らしめるに至った。
&ref(023教皇交代.jpg,nolink);
後任は同じくピアスト家のアデオダトゥス3世である。
&ref(024教皇交代2.jpg,nolink);



11月4日、ティムールが国境を侵疆しエデッサ伯領の領有を宣言した。
&ref(025ティムール来る.jpg,nolink);
皇帝は大いにこれに怒り、サラセン人との戦いを早急に終結させ、すぐさま全諸侯の兵力を挙げて対応するに至った。

12月3日、チュートン騎士団がティムールとの戦いに加勢した。

12月26日、マジャール女王アデリンデはティムールの横暴に義憤を覚え、帝国側について参戦した。


''マシャフの戦い''帝国軍5万VSティムール朝6万
1392年5月29日、マシャフにて両軍は会戦した。
帝国軍はティムールの騎射兵に大いに苦しめられたが、
&ref(026ティムール来る2.jpg,nolink);
6月14日、ドゥブロヴニク王シニザの軍が矢雨と潜り抜け敵に切り込むと形勢は変わった。
&ref(027ティムール来る3.jpg,nolink);
 6月24日。騎射兵の弓を潜り抜けると意外と弱い
&ref(028ティムール来る4.jpg,nolink);
7月2日、ティムールの別部隊が到着し、またも形勢は逆転した。

7月21日、皇帝は敗北を認め、エデッサはティムールの宗主下に置かれた。
&ref(エデッサ女伯.jpg,nolink);
 わずか6歳のエデッサ女伯ヨハネはティムールの帝国に囚われてしまった

この敗北は、所詮一伯領の帰趨が変わっただけであったのでキリスト教世界は大して動揺しなかったが、
教皇アデオダトゥス3世は大いに怒り、皇帝を非難する文書を届けた。
その内容は多くがエデッサ失陥についてであったが、コンスタンティノポリスから未だ東方正教の総主教を追放できていないこと、
今までの教皇の時と違い彼の教皇即位の時に皇帝が即位祝義を献じ奉らなかったことについて恨めしく書かれており、
心外たる皇帝は対立教皇を立てることを思案されたが、元老院諸臣は未だ教皇庁の権威が高く対立教皇は難しいとの問答を得た。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕は主と教会のためを思いノルドの身でありながらエルサレムやコンスタンティノーポリに至るまで治めて居るというのに、
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 教皇からこのような仕打ちを受けるのは心外だ。ローマに進軍し、あの者を廃してより性格の良いものに替えるべきではないか。

&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 畏れながら陛下、あの教皇は各地の教会としっかりと手を結んでおり、その権威は強固であります。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 今の帝国にも教皇に心酔するものが多く、例えば陛下と御同族にあらせられるヴァルデマ殿下もそうです。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 残念ながら、今は臥薪嘗胆の時でありましょう。東西教会の合一を成し、ローマの教皇に付け入る隙を与えないようにしてくださりますよう。

&ref(029宗教権威.jpg,nolink);
 同族のヴァルデマはスリースヴィ公ヘンリクの長子。白痴かつ同性愛者であったので僧侶にした。

8月16日、皇帝は内患外憂の排除を誓い詔し、手始めにノルウェー王位を簒奪せんと謀むフェローの公リンダを攻撃した。

10月26日、自ら使徒であると名乗る等、権威の絶頂に居たアデオダトゥス3世が急死した。
&ref(030教皇崩御.jpg,nolink);
即位期間は一年に満たなかったが、その間権威を落とすことは無かった。
後任にはアスカニエン家のがマルティウス2世として即位した。


1393年1月8日、皇后グレミスラヴァが双子を出生し、そのうち一人は男子であった。
皇帝はすでに子が4人いたが、すべて女子であり後継者たる男子の誕生は群臣から大いに喜ばれた。
皇帝は息子にオト、娘にはカロリーネと付けられた。
&ref(031オト出生.jpg,nolink);
 しかも天才である

3月18日、202代皇帝マルティウス2世が崩御した。
在位5か月、事績は何もなかった。
203代教皇にはデンマーク領スコーネの大司教、スィヴェリーンがフェリクス4世として即位した。
&ref(032新教皇.jpg,nolink);

4月19日、皇帝の第一子イリザベトが薨去した。7歳であった。

1393年9月27日、密偵頭オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世が薨去した。
ヴァルデマ再興王の時代から密偵頭として代々に仕え、大いに功績があったとされる。
自らの力を過信し、国庫から金を不当に得たり、デンマーク王イーレク7世と衝突するなど晩年は奇行が見られた。
&ref(033密偵頭薨去.jpg,nolink);

12月12日、皇帝は宴を催した。

1395年1月2日、元老院はコンスタンティノポリスの守護ステファニアが未だ東方正教の全地総主教を捕縛できないことに業を煮やし、
ステファニア解任の決議を元老院に提出した。
決議の後、皇帝の元に宰相スィモンが参り以下のように奏上した。

&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 元老院の決議を、宰相スィモンが代表して奏上させていただきます。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); コンスタンティノポリスの守護、ステファニアは未だに東方正教の総主教を捕えることもできず、その職務を放棄しています。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); しかしながら、コンスタンティノーポリの伯であることを笠に着てかつて歴代のローマ皇帝の住まわれた豪勢な宮殿を住処にしています。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); このような者を放置しておくことは帝国と陛下の威信にかかわる出来事であり、この者を解任するべし。と元老院は決議いたしました。
&ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 元老院諸臣は陛下がこの者を速やかに帝国より排除することを望みである事を奏上いたします。

&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝らのいうことは尤もである。コンスタンティノポリスの守護ステファニアを解任し、かの地は皇帝たる朕が自ら治めよう。

皇帝はそうのたまわれると、セルビア、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの郡を徴兵し、コンスタンティノポリスに向かわせた
&ref(034シスマ修復.jpg,nolink);
帝国軍は2万の軍でコンスタンティノポリスを包囲した。
7月5日、ステファニアは降伏し、帝都コンスタンティノポリスは皇帝直轄領となった。
7月7日、皇帝は全地総主教テオフィアクトスの追放を宣言した。

テオフィアクトスはわずか500の兵しか集めることはできなかった。
&ref(036シスマ修復.jpg,nolink);

7月10日、今やアフリカにしか信奉者のいないスンニ派によりシチリアにジハードが宣言された。
&ref(035シチリアジハード.jpg,nolink);

8月11日、イル=ハン皇帝はすべての所領を失い、テオドシポリスの太守ベルェが名目上推戴する君主となった。
&ref(039イルハンの落日.jpg,nolink);

8月30日、全地総主教軍は降伏しコンスタンティノポリスの全区画は帝国領となった。

9月2日、宮廷長官エストラント公トルギルスが薨去した。63歳の大往生であった。
オト1世の御世に功ありてエストラント公を賜り、のちに宮廷長官として忠勤に励んだ。
公爵位は息子ゴトフリドが継いだ。
&ref(037宮廷長官薨去.jpg,nolink);

9月4日、皇帝は東西教会分裂の修復を宣言した。
&ref(038シスマ修復.jpg,nolink);
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 神により加冠されし至尊なる尊厳者、全ノルドの保護者にして最高統治者、平和をもたらすローマ皇帝、エルサレムとアンティオキアの王たる朕、ヴァルデマが今申しわたす。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕の百官諸寮、封土公民はみな心して聞け。朕が御祖の事績と、汝らの功ありて、今ここに東西の教会は統一された。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 今、東方に大いなる帝国がまた生まれたが、案ずる事は無い。我ら全き道の使徒は古来から蛮族の襲来や、異端の勃興に会うたびに、結束を深めた。
&ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕は朕と汝らがこれからも友を助け、神を敬う心を忘れぬようにし、全き道の栄えることを望むという朕の詔を皆承れと申しわたす。
とのたまわれた。

テッサロニキ専制侯、グルジア王、ノヴゴロド大公らはカトリックに改宗したが、キプロス王、リトアニア王などは東方正教に留まった。

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