*初心者による初心者のためのブルグンド王国 [#w69ba225]
**アキテーヌ継承戦争 [#fbbfdda1]
***アキテーヌ王権の独立 [#kcd3a0ec]
1128年、トゥールーズ家のPons-Guilhemがラングドックで叛乱するとフランス王Amauryは末弟のGaucherを鎮圧に送った。ところが、Gaucherはボルドーに至ると、自らも国王に反旗を翻し、アキテーヌ王として戴冠したのだった。Amaury王はこれに怒り狂ったとも伝えられるが、単独でトゥールーズの叛乱を鎮圧することは困難であり、同時にボルドーと対立することを避けるため、しぶしぶこの独立を承認した。これにより、フランス王権は南北に分裂することとなったのだった。
1128年、トゥールーズ家のPons-Guilhem II世がラングドックで叛乱を起こすとフランス王Amauryは末弟のGaucherを鎮圧に送った。ところが、Gaucherはボルドーに至ると、自らも国王に反旗を翻し、アキテーヌ王として戴冠したのだった。Amaury王はこれに怒り狂ったとも伝えられるが、単独でトゥールーズの叛乱を鎮圧することは困難であり、同時にボルドーと対立することを避けるため、しぶしぶこの独立を承認した。これにより、フランス王権は南北に分裂することとなったのだった。
 
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 ボルドーにアキテーヌ王国が、トゥールーズに叛乱軍勢力が存在する他、中部にも多数の小国が分立している。
 
1138年、アキテーヌ王Gaucherが35歳の若さでこの世を去ると、肥満王Amauryはこれを好機と捉え、軍勢を南下させ、一気にボルドーを陥れた。こうして再統一がなされたフランスであったが、その統一は長くは続かなかった。アキテーヌ王Gaucherはその治世に於いて、サリカ法典に基づく王位継承法の明文化に取り組んでおり、相続は分割相続を旨とすることが取り決められていたのである。1165年に肥満王Amauryが薨去すると、この法典を根拠として王のふたりの息子、GuilhemとPierreはフランス王国とアキテーヌ王国を分割して相続することとなった。Pierreが相続したアキテーヌ王国は南仏の叛乱地域を包含するもので、かつてのGaucher王の領した領域をはるかに凌ぐ規模であった。この分割により北仏と南仏は完全に別個の歴史を歩んでゆくこととなる。
 
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 Amaury肥満王死後のフランス王国。北部一円はGuilhemに、南部一円はPierreに継承された。
 

***アキテーヌ王Amaury II世のスコットランド継承 [#v17cdb12]
分裂したフランスは北部・南部ともに戦乱に見舞われ続けていた。北仏では神聖ローマ帝国がフランドルの領有を巡って度々侵入してきていたし、南仏では、トゥールーズ公が度々叛乱を起こし、神聖ローマ帝国麾下のプロヴァンスがそれに付け込んで領土を侵食していたからだ。
 
アキテーヌ王Pierreは早世したが、スコットランド王女Rodinaとの間に7人もの子女を残しており、長男のAmaury II世がアキテーヌ王として即位していた。状況が変化してきたのは、王母となったRodinaがスコットランド女王として即位したことからだった。Rodinaの父、スコットランド王Adamの唯一の男子は夭折しており、Rodinaがその後継者として選ばれたのだ。こうしてアキテーヌ王国とスコットランド王国は母子が共同統治する形となっていたのだったが、1190年に女王Rodinaが死去したことにより、Amaury II世は正式にスコットランド王ともなり、アキテーヌ=スコットランドは正式に同君連合となったのだった。
アキテーヌ王Pierreは早世したが、スコットランド王女Rodinaとの間に7人もの子女を残しており、長男のAmaury II世がアキテーヌ王として即位していた。状況が変化を見せたのは、王母となったRodinaがスコットランド女王として即位したことからだった。Rodinaの父、スコットランド王Adamの唯一の男子は夭折しており、Rodinaがその後継者として選ばれたのだ。こうしてアキテーヌ王国とスコットランド王国は母子が共同統治する形となっていたのだったが、1190年に女王Rodinaが死去したことにより、Amaury II世は正式にスコットランド王ともなり、アキテーヌ=スコットランドは正式に同君連合となったのだった。
 
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 アキテーヌとスコットランドの連合(1190年)

この状況を快く思わない者は多かった。特にイングランド王やフランス王は南北をアキテーヌ勢力に挟まれる形となり、露骨に不快感を表した。しかし、転機は思わぬところから訪れる。Amaury II世の死後、その跡を継いだPierre II世が暗殺されたのだ。暗殺を命じたのはPierre II世の姉、Raymonde。Raymondeは弟の死を見届けると自らアキテーヌ女王に即位したが、スコットランド王位は妹のGuillaumetteに譲り、スコットランドとアキテーヌの連合は僅か2代で終焉を迎えることとなった。
 
この状況を快く思わない者は多かった。特にイングランド王やフランス王は南北をアキテーヌ勢力に挟まれる形となり、露骨に不快感を表していた。しかし、転機は思わぬところから訪れる。Amaury II世の死後、その跡を継いだPierre II世が暗殺されたのだ。暗殺を命じたのはPierre II世の姉、Raymonde。Raymondeは弟の死を見届けると自らアキテーヌ女王に即位したが、スコットランド王位は妹のGuillaumetteに譲り、スコットランドとアキテーヌの連合は僅か2代で終焉を迎えることとなった。
 
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 呪われたRaymonde。礼儀正しいが嘘つきで、勇敢だが疑り深い。謀略スキルは20に達します。
 拷問器具を収集し、日な日な地下牢に通っては囚人を尖ったナイフで突き刺すのが趣味だったそうです(Impaler)。
 すごくキャラ立ってますね。
 
 呪われたRaymonde。礼儀正しいが嘘つきで、勇敢だが疑り深い。謀略スキルは20にまで達する。
 拷問器具を収集し、日な日な地下牢に通っては囚人を尖った釘で刺すのが趣味だった(Impaler)。

***イングランド王Eadgar II世のアキテーヌ継承 [#a9dfce18]
Pierre II世暗殺事件の衝撃が残る中、イングランド王Eadgar II世は暗殺者であるRaymondeのアキテーヌ王位継承に異を唱え、アキテーヌ問題へ介入する姿勢を強めていった。Eadgar II世は自身の母Matildeがフランス王Amaury I世の次女であることからアキテーヌの継承権を主張し、アキテーヌを占領、1207年にアキテーヌ王として戴冠した。確かに暗殺者Raymondeの王位には反対する者は少なくなかったが、事の顛末から、暗殺事件の黒幕はイングランドなのではないかという噂がまことしやかに囁かれた。
 
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 イングランドとアキテーヌの連合(1207年)
 

イングランド王によるアキテーヌの継承はフランス王Guilhemの態度を硬化させた。イングランドの強大化が軍事上の脅威であったばかりか、イングランド王がAmaury I世の孫であるというまったく同じ理屈でフランス王位を狙うことも充分に考えられたからである。この批判をかわすため、Eadgar II世は次の王はアキテーヌ王国内の選挙に基づいて選出することを表明した。アキテーヌ諸侯はイングランドの支配下に残ることを嫌う一方で、同時にイングランドによる軍事的な後ろ盾を必要ともしていた。こうした背景のなか、Eadgar II世が1221年に死去すると、選挙により選ばれたのはEadgar II世の娘婿であったガスコーニュ公Thibaultであった。とはいえ、この結果、アキテーヌ王位はブロワ家に移ることとなり、イングランドとの同君連合も10年余で解消されることとなったのだった。

***プロヴァンスの介入 [#y9e681d2]
1247年、アキテーヌ王Thibaultの跡を継いでいた長男、Thibault II世が21歳の若さで病に倒れた。王位は選挙により幼年の息子(Thibault III世)に受け継がれたが、この相続に異を唱える者がいた。Ida Capetである。Idaはプロヴァンスに婿入りしていたAmauryI世の傍流で、当時、プロヴァンス公Ruprechtの愛人として、プロヴァンスで権勢を揮っていた。カペー家の王統の正当性を主張したIdaはプロヴァンス軍をアキテーヌに介入させ、父Josselinを王座に就かせた。これにより、アキテーヌの王位は再びカペー家の元に戻ることとなったのだった。民衆は「正統な王」の帰還を喜び、王Josselinを「公正王」と呼んで讃えたという。
1247年、アキテーヌ王Thibaultの跡を継いでいた長男、Thibault II世が21歳の若さで病に倒れた。王位は選挙により幼年の息子(Thibault III世)に受け継がれたが、この相続に異を唱える者がいた。Ida Capetである。Idaはプロヴァンスに婿入りしていたAmaury I世の傍流で、当時、プロヴァンス公Ruprechtの愛人として、権勢を揮っていた。カペー家の王統の正当性を主張したIdaはプロヴァンス軍をアキテーヌに介入させ、父Josselinを王座に就かせた。これにより、アキテーヌの王位は再びカペー家の元に戻ることとなったのだった。民衆は「正統な王」の帰還を喜び、王Josselinを「公正王」と呼んで讃えたという。

***Bohemond王の夢 [#te6caf9c]
プロヴァンス公Ruprechtが1260年に死去すると、Ida Capetを通じたプロヴァンスのアキテーヌへの影響力は失われた。そして、1263年にJosselinがこの世を去ると、スコットランドとの連合を目指したかつてのアキテーヌ王Amaury II世の孫、Bohemondが国王に選出されたのだった。Bohemond王には夢があった。Bohemondは暗殺者Raymondeの妹でスコットランド女王となったGuillaumetteの長男として、1207年に生まれた。この出産は難産であり、母はそれがもとで死んでしまった。それゆえにBohemondは母と会ったこともなかったが、彼は文字通り生まれながらにしてスコットランド王だったのである。
 
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 スコットランド女王Guillaumetteは難産で死亡した。
 兄を暗殺した姉から突然王位を渡されたのだから“Unready(準備ができていない)”なのは仕方がないかと思います。
 兄を暗殺した姉から突然王位を渡されたのだから“Unready(準備ができていない)”なのは仕方がないところか。
 ※“the Unready”の定訳は『無策王』あるいは『無思慮王』(イングランド王エゼルレッド2世)です。
 
ところが、彼の王座は長くは続かなかった。僅か3歳にして従兄弟のBerneadに王位を簒奪され、スコットランドを追われたのだ。Bohemondはそれ以降というもの、ピレネー山脈の裾野でひっそりと暮らしてきたのだったが、56歳にして不意にアキテーヌの王位が転がり込んできた。Bohemondの中にはかつて喪った王位への思いが蘇るのも無理は無かった。1282年、叛乱の蜂起に乗じ、Bohemondは王座への復権を宣言してスコットランドに上陸した。75歳。実に72年ぶりの復位であった。

ところが、彼の王座は長くは続かなかった。僅か3歳にして従兄弟のBerneadに王位を簒奪されたのだ。Bohemondはスコットランド王の臣下として少年期を過ごしたが、その立場には甘んじていられず、18歳にして武装蜂起したものの、鎮圧され、スコットランドを追放された。そして、それ以降というもの、ピレネー山脈の裾野でひっそりと暮らしてきたのだった。ところが、56歳にして不意にアキテーヌの王位が転がり込んできたのだ。Bohemondの中にかつて喪った王位への思いが蘇るのも無理は無かった。1282年、叛乱の蜂起に乗じ、Bohemondは王座への復権を宣言してスコットランドに上陸した。75歳。実に72年ぶりの復位であった。

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 老王Bohemondは72年ぶりにスコットランド王に復位した。
 これだけの期間を経て復位した例は現実の歴史でも見たことがありません。

こうしてアキテーヌはスコットランドとの同君連合として14世紀を迎えることとなったのだった。

 
こうしてアキテーヌはスコットランドとの同君連合として14世紀を迎えることとなった。
 
***跋文 [#gd5132e8]
非常に複雑な経過を経たアテキーヌ王国に関してまとめて見ました。王号の創設は権威ポイントを稼ぐ上では有効な方法ですが、国家分裂のリスクを孕みます。AIに関していうと、神聖ローマ皇帝(皇帝位を持っているため比較的安全に王号を創設できる)は創設可能な王号(非常にたくさんあります)をほとんど創設しないのに対して、フランス国王はアキテーヌ王号を創設する場合が多く、理解に苦しみますね。ひょっとすると、フランス王国領の散逸から100年戦争に至る経過を再現したくてわざわざそうなっているのかも知れません。

それにしても、今回はキャラ立つ人物が多く、やはり、CK2はプレイヤーが下手に弄らない方が面白い歴史を紡いでくれる気もします。面白いところを掻い摘んでいるからかも知れませんが。

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[[初心者による初心者のためのブルグンド王国>AAR/初心者による初心者のためのブルグンド王国]]

 
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