AAR/教皇は太陽、皇帝は月

Oberto di Parmaの治世

現況

パルマ家がいかにしてコルシカ・パルマ州を治めるに至ったかは定かではないが、家系図に拠ればトスカナ公国の臣下として父の代から統治を行っていたようである。

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トスカナ公国はパルマ州とコルシカ州を支配するパルマ伯、ルッカ州を支配するルッカ伯の他は全てトスカナ女公マチルダの支配下にあり、その所領は実に7州にも及ぶ。トスカナ公国は神聖ローマ帝国における最大勢力のひとつとして、イタリアだけでなく帝国内でも幅を利かせている。

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オベルトの凡庸な生涯

1070年、廷臣に地元で文化を研究していた廷臣が突如フランシスコ派とかいう異端に染まり、あまつさえ改宗を勧めてきた。驚いた当主オベルトはすぐさま彼を投獄し、統治下にあった司教領を接収した。

1071年、隣接するルッカ伯との間で国境をめぐるいさかいが起き、問題の"解決"をはかるべくオベルトはスイス傭兵1500を引き連れルッカに侵入。翌年にはルッカ伯の居城を包囲の末陥落させ、ルッカ州を配下に収める。

1082年、皇帝ゴットフリード一世の死を発端とし、イタリア全土で主君のマチルダ公をはじめとする諸侯による大規模な反乱が勃発する。戦争にはオベルトも駆り出され、皇帝軍との戦いの中、戦争の行く末を見届けることなく戦死した。享年53歳、1082年の冬のことであった。

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オベルトはその生涯で一人の妻を持ち、6人の子供をもうけた。

世界情勢

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ノルマンディ公のイングランド征服、アフリカ王のイタリア上陸、セルジューク朝の東ローマ侵略などが起きている。また帝国バルト沿岸の異教徒を侵略、トスカナや南ブルゴーニュなど帝国のDe jureで無い国家が帝国に対して反乱している。


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