AAR/王朝序曲

ルイ6世の治世・後編

ルイ6世はしばしば侵略主義者とよばれる。
確かにルイの治世が侵略戦争で彩られていた事は事実だが、それはこの時代の支配者全般に言えることだ。
ただ、ルイの場合はあまりにも性急すぎた。これが彼の悪評を高からしめた原因だろう。
ルイの不幸は即位した時点ですでに46歳と高齢であったことだ。
人生50年のこの時代、帝位への野望を抱くルイが余命への焦りから急速な拡大政策をとったことは仕方のない事であったのかもしれない。

不幸

1197年11月20日
スウェーデン王エムンドは病に倒れ政務遂行能力を喪失した。
王妃フランチェサ(ルイの庶子)は重臣たちの反対を押し切る形で自ら摂政に就任。スウェーデンの実権を掌握した。

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ルイの庶出の長女フランチェサ 不幸な出自が彼女を権力亡者に成長させていた

しかし誇り高いノルドの男たちにとって異邦人の、それも女の支配者は受け入れられるものではなかった。
貴族たちはエムンドの従兄弟ウップランド公ラグナールを旗頭に反摂政の派閥を結成。
ついには武装蜂起に踏み切りスウェーデンは内乱状態に陥る。
フランチェサの天下は1年と続かなかった。
失脚し幽閉されたフランチェサは1199年2月2日、衰弱により33歳の短い生涯を終えた。

フランチェサの死を伝え聞いたルイは1人礼拝堂に籠もりその死を悼んだと伝わる。
政治的理由から生涯対面する事が無かったとはいえ、ルイにも肉親の情はあったのである。

尚、無能力者となったエムンド王はその後も7年間生き続け1206年7月3日に71歳で崩御。
フランチェサとの間に生まれた長男トルケルが王位を継承している。

不幸は続く。

1198年2月16日
ブルターニュ・ポワトゥ公ゴドフロワが48歳で死去。長男ゴドフロワがブルターニュを、次男ランボーはポワトゥを分割相続した。
ゴドフロワの大邦は彼一代で分裂した事になる。

1199年9月19日
元帥ゴスパトリクが61歳で死去。後任にはトゥールーズ伯レーモンが選ばれたが、その地位は僅か2年でロシアから来た若者に奪われる事になる。

1199年10月2日
トルコのヴェイズラ王朝初代《スルタン》ザグルが79歳で崩御。
次男のダマスカス君侯ドガンがスルタン位を継承した。
第二代スルタンとなったドガンはビザンティンとの抗争にあけくれることになるが1209年に在位10年で戦死。
長男のスレイマンが第三代スルタンとなるがそれはまだ先の話である。

1199年12月26日
宮廷司祭長にしてシャンパーニュ大司教でもあるアルノーが死去。49歳だった。
アルノーは虚栄心が強い人物だったと語られる事が多いが、それは必ずしも正しくはない。
彼は豪華絢爛な聖堂を建立していながら、その私生活は質素であったという。
彼の信心や忠誠心は本物だったし貧者への施しを惜しむこともなかった。
ただ彼の自意識はフランスと一体化しており、フランスによるローマ帝国再興を助けることが己の使命であると信じて疑わなかった。
通常の価値観を以って計ることが難しい、奇妙な人物だったといえよう。

1201年11月5日
遠いロシアの地から1人の若者がやってきた。
若者の名はスタニスラフ・ミクリニチ。ガーリチ・メルスキー伯家の次男である。
少年時代から軍事的才能を発揮してきた彼であったが、その容姿の醜さを主君ウラジミール公に嘲笑され出奔。
その軍才を伝え聞いたフランス宮廷に招聘されパリにやって来たのである。
スタニスラフはただちに元帥に任命され、後にジャルゴー男爵領を与えられた。

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元帥ジャルゴー男爵スタニスラフ ジャルゴー男爵位は三代続けて顧問を排出したディヴレーア家が保持していたものである

1203年4月29日
王妃メリシェンダが死去。
翌日、ルイはアイルランド貴族のタールフラと再婚をした。

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王妃タールフラ ルイ6世の三番目の妻

年の離れた夫婦であったが夫婦仲はよく、1206年には四男ロタールが誕生している。

神聖ローマ帝国

1162年に即位した神聖ローマ皇帝ジークフリートは失墜した帝権を強化すべく伯領の剥奪を繰り返し、在位40年を迎える頃には直轄領の規模も大幅に拡大していた。
しかし皇帝の強権的な政治に反発する勢力も多く、1201年にはボヘミア王が独立を求め挙兵。
トスカナ公(ルイの長男)もこれに呼応し1203年10月7日には帝国からの独立を果たしていた。

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ボヘミア王ヴィテク 悲願だった帝国からの独立を果たす

1204年1月22日
失意の皇帝ジークフリートは81歳で崩御。
帝位を継いだのは晩年に生まれた四男レオポルド。僅か2歳であった。

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皇帝レオポルド 81歳の皇帝から2歳の皇帝へ

帝国は分割相続を採用していたがジークフリートの息子たちはいずれも早世しており、唯一生き残っていたレオポルドが全てを受け継ぐ形となったのだ。
むろん2歳の幼児に統治能力などあるはずもなく、ドーフィネ公エクベルトが摂政として帝国を運営する事になる。
しかしエクベルトに帝国を背負うだけの実力はなく、帝権の弱体化を好機と見た諸侯たちが次々と反乱をおこし帝国は大混乱に陥る。

帝国の混乱は勢力拡大の好機である。
ルイはかねてよりロンバルディア地方征服の意図を持っており、その為にミラノ公国の請求権者を宮廷に招き伯位を与えていた。

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ピエモンテ伯グリエルモ ミラノ公国の公位請求権者

1204年7月13日
ルイはグリエルモの公位を主張しミラノに宣戦布告。
帝国と交戦中のミラノは思いもよらぬ侵略に抵抗する力もない。

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ハイエナに食い荒らされる帝国
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ミラノを蹂躙するフランス軍

1206年4月30日
ミラノ女公ルクレチアは降伏。グリエルモが公国を継承しフランスの宗主権下に入った。

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北イタリアの掌握も順調に進んでいる

1206年8月27日
反乱軍に擁立されていた下ロレーヌ公ヴァルラムが皇帝に即位。幼帝レオポルドは廃位され93年続いたツェーリンゲン王朝は終焉した。

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皇帝ヴァルラム ヴェルダン王朝を創始した76歳の老帝

しかし帝国の混乱はまだ終わらない。
ヴァルラム帝自身は反乱軍に祭り上げられただけの無害な老人で政治的野心などなかったが、前王朝と血縁関係をもたない彼の即位に反対する諸侯たちはこれを簒奪とみなし一斉に反発。
ジークフリート帝の皇女を母に持つバーベンベルク家のアマデウスを擁立しヴァルラム打倒の兵を挙げる。
反乱の首謀者は上ブルゴーニュ女公ブルンヒルデ。フランス王太子妃である。

ブルンヒルデは夫トスカナ公ルイと舅であるルイ6世に援軍を要請。
ルイ父子はこれを承諾し帝国の内乱に介入していく。

1207年3月11日
ルイは王国全土に動員令を発した。

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彼我の戦力差は明らか

皇帝はそれでも3年持ちこたえたが、戦争末期になると周辺諸国の侵略や中立だった諸侯の離反が相次ぎ四面楚歌に陥っていく。

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嗚呼、四面楚歌

1210年3月16日
皇帝ヴァルラムは廃位されバーベンベルク家のアマデウスが皇帝に即位。
ヴェルダン王朝は僅か4年で幕を閉じた。

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皇帝アマデウス バーベンベルク王朝の創始者

相次ぐ王朝交代により神聖ローマ帝国の王権は最低となり、皇帝は反逆者の爵位剥奪権すら失うことになった。
まして新帝アマデウスの直轄領は伯領1つであり、帝国の安定は当分先になりそうである。

ファーティマ朝の終焉

1207年7月22日
ファーティマ朝の《カリフ》ムーサ2世が59歳で崩御。
三男のゴンダール首長ダニアルが21歳で即位した。
一連の敗戦により政治への興味を失っていたムーサが奢侈に走った為カイロの宮廷は退廃に満ちていた。
即位したダニアルはムーサ2世時代の顧問団を解任し、ゴンダール時代からの近臣たちを後任に充て綱紀粛正に乗り出す。
なおムーサ2世の宰相アゲラルはこの時点ですでに任を解かれていた。(敗戦の責任を問われ失脚していたと脳内補完)

ダニアルは彼なりに王朝の再建に努力したのだろう。
しかし一度傾いた王朝を立て直すには力量不足であり、即位直後にはセンナール首長ムバラク(ムーサ2世時代の将軍)が反乱を起こしている。

1207年10月
ムンチェレン部族のヤッシルが王朝打倒を掲げ挙兵。
反乱軍はまたたくまに膨れ上がり20万を超える大軍となる。(コイツらどこから湧いてくるんだろうか…)
カリフのマムルーク軍団をもってしてもこれを防ぐことは出来ずカイロは陥落。

1208年9月7日
ダニアルは廃位されファーティマ朝はムーサ2世の崩御から僅か1年で滅亡した。

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ムンチェレン王朝の創始者ヤッシル この王朝もいずれ退廃して謎の部族に滅ぼされるのだろうか

晩年

1207年6月17日
トスカナ公ルイに長男が誕生した。
ルイ6世はこの初孫にシャルルと名づけた。
かの偉大なシャルルマーニュにあやかって名づけた事はいうまでもない。

野心家のルイは晩年になってもその気力が衰えること無く、大臣に命じてイタリア各地の要求権を捏造させている。
しかしそれらを行使する機会はついに訪れなかった。

1211年2月9日
ルイ6世は崩御した。
享年76

祖父アンリ2世に溺愛され、父からフランスを、母からイングランドを受け継いたルイは誰よりも恵まれた境遇にあった。
彼の立場なら「自分は皇帝になれる」と思うのも当然だったろう。
しかしルイには時間が足りなかった。
もう少し早く即位していれば、生きているうちにローマ皇帝への夢は実現できたのかもしれない。
帝国への夢は長男ルイ7世に引き継がれることになった。

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後世の評価

『侵略主義者』これが後世の一般的な評価である。
ルイは増大した国力にものをいわせスペインとイタリアに版図を拡大した。
またドイツの内乱に積極的に介入し各地を蹂躙してまわった。
これらの侵略は全てローマ帝国再興という一貫した目的に則って行われている。
ヨーロッパにおけるフランスの覇権は彼の時代に始まり、それはまさに来るべき帝国時代を準備するものであった。
内政面では特に目立った治績はないが、イングランドとポルトガルに大司教領を創設した事は、帝国の宗教政策を予感させるものとして注目してよい。

あとがき

今回は三部構成(幕間を含めると実質四部構成)になりました。
中身自体はさして濃くはないのですがなにぶん画像が多くなってしまったもので。
後編は大半が他国の情勢説明で登場人物のセリフも全く無いという、「これって必要か?」と云われそうな内容ですが、世界情勢を並行して記述するのがこのAARのスタイルなのでご容赦を。
しかしまあ、HREが酷すぎますね。今までプレイしてきてこんなの初めてです。

続きはこれからプレイしますので今しばらくお待ちください。


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