[[AAR/葡萄の枝]]

*フィルマン一世 [#v4657894]

**天才の懐疑 [#q557f39f]

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  ブルゴーニュ家五代目フランス王フィルマン一世(16歳当時)


 フィルマン一世は、父エルベール一世、母エレンベルガとの間に、1390年10月24日を以て生まれた。
 彼は生まれつき才気煥発にして、手持ちの玩具を鍛冶屋の息子にあげるといった気前の良さもあった。アインハルトのシャルルマーニュ伝を好み、事あるごとに読み耽ってはかの大帝の偉業を成さんと欲する野心を籠らせていた。
 反面、猜疑心が強く、同輩としばしば口論した。父に窘められて親切に振る舞うようにはなったが、根底の疑心を剪除するには至らなかった。また、世間をどこか冷めた目で見る癖があった。そのたびに父からの説諭を受けるものの、人智を超えた魂を振るわせる熱情を滾らせることはなかった。
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  太子フィルマンの養育でこの選択肢は二度現れた。余程の皮肉家なのだろう

 1406年11月、父に勧められてピサ王マルティノの姉アルダを娶った。彼女は聖アグネスの再臨とも囁かれた端麗なる淑女であった。
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  妻アルダ(21歳当時)。欠点となる特質がない

 1417年3月10日に父が崩じ、フィルマン一世はフランス国王を承継した。彼がまず着手したのは、首都ディジョンの区域内にある町・アヴァロンに大学を建てることであった。
 王太子たりし頃、諸般の学問に通じ神童と呼ばれていた彼にとって、フランス王国を取り巻く各々の王侯諸国、神聖ローマ帝国やイングランド王国、ヴェネツィア共和国などには目に見えぬ桎梏が嵌められているように思えた。正統やら異端やらに囚われ、見聞を広くしないのは自らを固陋にするほかない。そのための、蒙を啓く場が欲しいと思っていた。
 12月、莫逆の友オルレアン公ルノー肥満公と一席を設けた。彼もまた教義や正閏論といったものには懐疑的であり、此度の大学創設について熱く語り合った。
 ルノーの廷臣に、アブダという婦人がいた。彼女はアンダルシアに生まれ育ち、クリスチャンでありながらムハンマドの教えにも通じていた。フィルマン一世は、博学にして偏見を表に出さない彼女と波長が合い、アラビア語でコーランを夜通し語り合うに至った。
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  ムスリムを悪とせず、心を開く

 1418年6月3日、フィルマン一世とアルダとの間に男児が誕生し、エルベールと名付けられた。
 同年9月、王は神聖ローマ帝国領ドーフィネに進軍した。ドーフィネ伯の紋章にはイルカが描かれており、イルカの宿痾を取り除かんと息巻いた。
 1419年8月、陣中にて妻アルダが妊娠したとの知らせを受けた。王は俄かには信じられず、使用人をして探索せしめた。疚しいところは見つからなかったが、密偵を雇うほどの詮索は止めにした。
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  懐妊を素直に受け入れられなかったフィルマン一世

 翌年4月2日、アルダの出産によって夫は漸く真実を悟った。妻譲りの玲瓏たる女児で、アデルと名付けた。

 1421年7月、アルダ妊娠の報がまた届けられた。此度も疑心を抱き、先の使用人に再び探らせた。結果は変わりなく、アルダに醜聞が見出されなかった。
 翌年2月2日、フィルマン一世は己の猜弐たるを愧じた。アルダとの間に生まれた女児は、ブルゴーニュと名付けられた。

 1423年5月、神聖ローマ皇帝ディーターとの戦いに勝利し、ドーフィネを割譲した。

 1424年8月、アルダの妊娠がみたび伝えられたが、フィルマン一世はもう疑いをかけることをしなかった。
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  もう疑いはしない

 翌年3月2日、男児が誕生し、ギョームと名付けた。


**遥かなる帝国 [#na643ed3]

 神聖ローマ帝国との間に10年の和議が交わされたことで、フィルマン一世は次の矛先をイングランドに向けた。1425年12月、マンシュが慣習的なフランスの領土であることを主張し、イングランド王フィリップ残酷王に宣戦した。3年がかりで、フィルマン一世はフィリップ残酷王にマンシュの領有を認めさせた。

 次なる標的は、アキテーヌ王国であった。この地はプランタジネット朝のイングランド王ヘンリー二世が支配して以来、フランス王国としては二世紀半ばほどの空白が存していた。もはや慣習的な領土ではない。それゆえに、フィルマン一世は領有権を持つ家臣に手を貸すことで拡張を図ることとした。
 1432年2月、アングレームの要求権があるリュジニャン伯アントワーヌを説き伏せ、アキテーヌ王エドワード二世に宣戦した。
 同年4月、フィルマン一世は進軍の最中にあって、親族の訃報に接した。ジェヴォーダン伯ニコラスが、80歳の高齢を以て死亡したという。子供には先立たれて後継者がなかったため、ジェヴォーダン伯位および金5000余りの財産をフィルマン一世が引き継ぐこととなった。
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  莫大な資産相続

 1435年1月、アングレームの開戦事由が無効になり、フィルマン一世はエドワード二世との白紙和平を余儀なくされた。
 同年4月、ヴィエンヌより東にある神聖ローマ帝国領サヴォワへ兵を繰り出した。王はタンサンドールと名付けた愛馬に跨り陣頭へ立つが、敵将ヤコブとの戦いで顔に傷を負ってしまった。それでも怯むことはなく、勲章としてむしろ誇るようになった。
 1439年11月、フィルマン一世はサヴォワを獲得した。この直後、彼はシチリア王ラドルフと盟約を結んだ。次女ブルゴーニュの婿であり、共同戦線を組んで領土拡張をする算段であった。
 しかし、ラドルフから先んじて援軍要請が寄せられた。1440年1月、オドを首領とする民衆反乱を鎮圧してほしいとの懇願に、フィルマン一世は応えた。
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  援軍目当てはお互い様

 同年5月、援軍が戦地ベネヴェントへ到達する前にして、ラドルフは反乱軍との白紙和平を結んだ。遠征は徒労に終わった。

 1440年8月、フィルマン一世はブーローニュへの慣習的領有権を主張し、イングランド王フィリップ四世に宣戦した。16000の兵を率い、我軍優位で進めていった。
 1443年6月4日、王太子エルベールが25歳にして夭折した。死因はストレスからくる病気であると伝えられた。父は悲しみのあまり、三日の間飲食が喉を通らなかったといわれている。
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  早すぎる死

 エルベールは、ビザンツ皇帝テオフィラクトスの妹テオチャリステを妻に娶っていた。彼女との間には、ペイアンと名付けられた男児がいた。まだ僅かに1歳の王太孫が、フィルマン一世の次なる後継者として据えられることとなった。
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  息子の嫁は緋色のビザンツ人
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  息子の嫁は緋色のビザンツ人。1440年11月に肺炎で死去。享年22

 1446年8月、フィルマン一世は漸くにしてブーローニュを割譲した。

 1449年3月、フィルマン一世はアジャンの領有権を捏造し、シチリア王ラドルフと聯合してアキテーヌ王国へ攻め入った。アキテーヌ王は、エドワード二世の孫であるジェフリー三世に代わっていた。
 1450年8月、カタリ派がマコンに飛び火した。解放してから日が浅いサヴォワやヴィエンヌ、ジュネーヴなどの民がまだカタリ派に染まったままであり、異端審問させる暇がなかった。
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  カタリ派猛攻の始まり

 1450年10月、フランス・シチリア連合軍はアキテーヌ王ジェフリー三世に勝利し、アジャンがフランス王国の手に渡った。

 1450年11月、シチリアにて内訌が起こった。シラクサ市長クレメンスが、シチリア王権の低下を要求して反旗を翻したのである。ラドルフはフィルマン一世に早速援軍を要請した。フィルマン一世はプロヴァンスより兵を繰り出し、シチリア島からイタリア半島に侵攻せる反乱軍を邀撃させた。

 1451年7月、マコンでカタリ派の民エヴラールが蜂起した。フィルマン一世はディジョンから直属の兵を送り込み、3か月でこれを平らげた。

 1452年6月、マコンでまたカタリ派が蜂起した。前年と同様、3か月で首領ピエールを投獄した。

 1452年8月、シチリア王ラドルフがクレメンスに勝利した。クレメンスは投獄された。
 プロヴァンスのフランス軍が班師した後で、シチリア王国ではさらなる内訌が待ち受けていた。今度は、カタンザーロ伯ステファンによるシチリア王権低下のための反乱であった。ラドルフはフィルマン一世に再三援軍を要請した。
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  いいように利用された気がする

 シャルルマーニュに追いつき、そして超えることを目途としたフィルマン一世の野望は、道半ばであった。
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  1452年12月31日時点のフランス周辺地図
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&ref(./14521231_map2.jpg,70%);
  1452年12月31日時点のイベリア半島周辺地図
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&ref(./14521231_map3.jpg,70%);
  1452年12月31日時点の東欧周辺地図
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**筆者跋文 [#v241d238]

 時限が到来したので本稿はこれにて擱筆といたします。ここまでご覧いただきましてありがとうございます。

TIME:"2018-06-10 (日) 23:08:34"

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